“近鉄特急”の異名
2021年のパ・リーグは4人の盗塁王が誕生した。
なかでもロッテの“光速王子”こと和田康士朗は出場96試合も打席数は24打席で24盗塁を記録。まさに「代走のスペシャリスト」として躍動し、初タイトルを獲得している。
ここぞの場面でベンチから一塁に飛び出し、ダイヤモンドを駆け巡ってチームに勝利をもたらす男たち…。
過去のプロ野球でも、そんな“足のスペシャリスト”は何人も存在した。
その元祖と言えるのが、近鉄・藤瀬史朗だろう。
1975年秋のこと。大阪体育大の4年生だった藤瀬は、教員採用試験に不合格になってしまった。
そんな時、ふと「近鉄入団テスト」の新聞記事が目に留まる。ダメ元で挑戦したところ、持ち前の俊足が認められ、見事に合格を勝ち取った。人間の運命は何がキッカケで、どう転ぶか本当にわからない。
2年目の1977年に西本幸雄監督から一軍に抜擢された藤瀬は、10盗塁を記録したばかりでなく、打者としても3安打を記録。外野も守るなど、不可欠のバイプレイヤーになった。
そして1979年にはシーズン27盗塁を記録。うち25までが代走で決めたものだった。藤瀬が登場すると、スタンドの近鉄ファンは「Go!Go!藤瀬!」と大合唱。親会社にちなんで“近鉄特急”の異名もついた。
そんな藤瀬の、野球人生における最大のハイライトシーンといえば、1979年の秋。3勝3敗で迎えた、広島との日本シリーズ第7戦だ。
1点を追う近鉄は9回裏、先頭の羽田耕一が中前安打で出塁。西本監督は満を持して代走・藤瀬を告げ、次打者のクリス・アーノルドのカウント2ボール・1ストライクからヒットエンドランを仕掛けた。
だが、アーノルドは江夏豊の4球目、外角のボール球を見送ってしまう。捕手・水沼四郎が二塁に送球。タイミングはアウトながら、藤瀬が執念のヘッドスライディングを見せると、ショート・高橋慶彦が捕球に失敗。ボールがセンターへと抜けていく間に、藤瀬は三塁まで進んだ。
その後、近鉄は無死満塁とチャンスを広げ、一死から石渡茂がスクイズを試みる。
藤瀬は江夏が振りかぶると同時にスタートを切ったが、その姿を視界の隅にとらえた江夏は、とっさにカーブの握りのままウエストボールを投げた。
石渡は空振りし、藤瀬も帰塁できず無念のタッチアウト…。もうお気づきだろう、かの有名な「江夏の21球」である。
21球中5球目に笑い、19球目に泣いた藤瀬。だが一方で、球史に残る伝説のシーンは、藤瀬の足が演出したとも言える。
“20世紀最高の投手の一人”に足で勝負を挑んだ好敵手として、記憶に残る男になった。
「神の足」と呼ばれた俊足
この藤瀬のNPB記録「代走で通算105盗塁」を更新し、その記録を「132」まで伸ばしたのが、“神の足”と呼ばれた巨人・鈴木尚広だ。
藤瀬の記録を抜いた2014年には、一度も規定打席に到達していない野手では史上初の通算200盗塁も達成し、2015年には川藤幸三(阪神)と並ぶNPB最遅のプロ19年目でオールスター初出場。現役最終年の2016年にも12年連続2ケタ盗塁と、自身初の盗塁成功率100パーセントを達成している。
そんな“ミスター代走”が自慢の足でヒーローになったのが、2015年5月9日のDeNA戦だ。
0-1の9回無死一塁で代走に起用された鈴木は、直後二盗を成功させると、犠打で三塁に進んだあと、亀井善行の右前タイムリーで生還をはたす。
さらに1-1の延長11回一死一塁、「ゲッツーはない」と判断した原辰徳監督の「打て」のサインに頷いた鈴木は、二ゴロに倒れたが、目論見どおり併殺を免れ、一塁に残った。
すると、鈴木の足を警戒したDeNA・中畑清監督は、小杉陽太が次打者・小林誠司に初球を投じた直後、捕手の交代を告げ、強肩の黒羽根利規で対抗してきた。
だが、「自分を信じた」鈴木は2球目に二盗を成功させると、3球目に黒羽根がワンバウンド投球を前方に弾いたわずかな隙を見逃さず三進(記録は暴投)。
そして4球目、小林の遊ゴロで決勝のホームを踏み、チームの全得点を自らの足で稼いだ。
試合後、お立ち台に上がった鈴木は「僕はいつもこういう役割を求められている。今日は自分を表現できていると思います」と語っている。
同年は好走塁で計3度ヒーローになった韋駄天は、20年間で通算228盗塁を記録した。
戦力外で1年浪人も…再入団で復活
代走なのに名字は代田(だいた)…。
通算25盗塁ながら、選手生命の危機から這い上がった苦労人として印象深いのが、近鉄・ヤクルト・ロッテの3球団を渡り歩いた代田建紀だ。
近鉄時代にウエスタンで2年連続盗塁王、ヤクルト移籍後の2001年にもイースタンでシーズン60盗塁をマーク。
驚異的な記録をつくりながら、二軍での実績は評価されず、翌年には自由契約になった。
それでも2003年、テスト入団したロッテで自己最多の38打席に立ち、4盗塁を記録したが、「1番・中堅」で出場した10月12日のシーズン最終戦・オリックス戦の3打席目に遊ゴロで一塁に駆け込んだ際に一塁手と交錯。左膝に全治1年の重傷を負ってしまう。
2日後、非情の戦力外通告を受けた代田は、「足が動くようになったら、来年の入団テストを受ければいい」と家族から励まされ、1年間の浪人生活を経て、翌04年の合同トライアウトを受験。
そこで復帰1年目のボビー・バレンタイン監督に認められ、ロッテに再入団をはたす。
迎えた2006年7月29日のオリックス戦。5回に左前決勝打を放ち、8年目で初のお立ち台に。
無職のときに支えてくれた家族に心から感謝し、「監督に恩返しができた。こういう日が来ると信じてやって来た」と感激の涙を流した。
2007年4月29日の西武戦では、中前安打で一塁から長駆生還したシーンも。ここ一番での激走を覚えているファンも多いことだろう。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)