野球ゲームの移り変わりから見るプロ野球史~第4回:燃えプロ
振り返ると、父が泣いていた──。
これは「野球ゲーム初の音声合成で球場での興奮そのまま、ファミコン『燃えろ!!プロ野球』」という87年当時のテレビCMナレーションの締め台詞である。
今振り返ると、『燃えプロ』はネタではなく、ガチだった。
止めたバットにボールが当たれば凄まじい勢いですっ飛んでいく伝説の“バントホームラン”が有名で、いまだにクソゲーでネタになることが多い初代『燃えプロ』だが、当時心から熱中した多くのファンが存在したのである。
発売前からファミリーコンピューター初のリアル系野球ゲームとして注目されていた話題作。とは言っても、開発中にナムコからあの野球ゲームの歴史を変えた『プロ野球ファミリースタジアム』が発売されてしまう。
ジャレコのプロデューサー関雅行は、当時の様子をゲーム雑誌『コンティニュー』Vol.14の中でこう振り返る。
「これはすごい、ということで、急きょ開発を止めたんです。でも我々としては野球に思い入れがあるし、ぜひとも作りたい。だったら、『ファミスタ』と違う切り口のリアル路線しかない、野球観戦ノリで行こう、となりまして」
こうして、燃えプロは競合他社がまだ開拓していないリアル路線に舵を切ったのである。
『ジャレコ・アーカイブス』(実業之日本社)の元NMK吉田晄浩氏インタビューによると、『HardBall!!』という海外製野球ゲームのピッチャー後方からの視点がヒントになったという。
それこそ、野球ファンが日常で接する“バックスクリーン側からのテレビカメラ越し目線”だったからだ。
爆発的なヒットで生産が間に合わず…
“する”より、“観て楽しむ”ことを意識して、当時としては画期的な音声チップ搭載の審判判定や「ピッチャー交代!」に「ホームラン!」といった実況風の演出を実現させた。
『ファミスタ』が球団ごとに投手4人・野手12人だった時代に、『燃えプロ』は各チーム投手12人・野手18人の計30人の収録を実現。投球や打撃フォームも選手ごとの再現をうたい、テレビ中継と同じセンターカメラの映像は鮮やかで、ペナントモードでは1試合ごとにパスワードが表示され80勝したら優勝というドラクエ以上の長い旅だ。
1987年6月26日の発売日には、新宿西口ヨドバシカメラに大行列ができるほど爆発的に売れすぎて生産が間に合わず、のちにジャレコ自社ソフトの『妖怪倶楽部』を流用したため、初期の赤とロム修正された黒のカセットが市場に存在する。
その盛り上がりは凄まじく、雑誌『小学二年生』87年9月号では、目玉特集として「日本中で大人気!「燃えろ!!プロ野球」の特別まんがだ!」の紹介文とともにファミコンまんが「燃えろ!!プロ野球」が掲載された。
定価5500円のソフトを約160万本も売った初代燃えプロだが、見た目のリアルさにこだわるあまり犠牲にした部分も多く、ゲームテンポは間延びして、対戦モードを友人同士で対決すると1試合あたり1時間近くかかることもザラで、2試合やったら約2時間とほとんど映画状態。家庭のお母さん激怒必至。それでも、心から絶対王者ファミスタに挑む、『燃えプロ』の世界観に惚れ込んだゲーマーたちも多かった。
傑作の続編「燃えプロ’88」の登場!
88年8月10日発売の『燃えろ!! プロ野球'88 決定版』は、いまだに語り継がれる名作だ。
ファミコン版では第2作目、同年に発売されたMSX移植版の『燃えろ!!熱闘野球’88』がベースになり、1作目のバグも解消され、本作からバイオリズム機能が搭載される。
徳間書店のわんぱっくコミックシリーズ攻略本を確認すると、「バイオリズムとは、すべての生体反応を持つ生命体に、3つの基本的周期で好調期と低調期の変化を表したもののことだ」と子どもにはちょっと何を言っているのか分からない説明が掲載されているが、なんと「身体(打球の飛距離)、感情(打球の飛行度)、知性(チャンスのヒット確率)」の3項目が好調時は0から7、低調時は0から-7と大きく変化。88年度のプロ野球選手の活躍が予測できてしまうのだ!
えっ本当に?なんて冷静に考える間もなく、ゲームでは大西洋リーグと太平洋リーグに分かれた全12チームが熱戦を繰り広げる。
もちろんここで、それセ・リーグとパ・リーグでしょなんて真っ当な突っ込みは野暮だろう。オープニング画面を飾るのはゴールデンルーキー・長嶋一茂風の“かすしけ”。Tチームのクリーンアップは「バース、掛布、岡田」ではなく、泣く子も黙る「ぶうす、ぬけふ、おかやん」(初期設定は4番ぶうす)。
8月発売にもかかわらず、6月14日のヤクルト戦で初打席初アーチの衝撃デビューを飾った巨人の呂明賜……じゃなくて、Gチームの“ろう”もしっかり収録。しかも、ゲーム内の成績設定が「打率.282、15本塁打」で、実際の呂の88年最終成績「打率.255、16本塁打」に限りなくリアルに寄せてくるデータ精度の高さだった。
試合テンポも格段によくなり、1試合あたり約30分で終えることができ、9段階のバットスイングとピッチング操作、守備ではダイビングキャッチやジャンプキャッチも可能となるなど、操作性も格段に上がった(今やると慣れるまでフライの落下点が読めない外野守備が異常に難しいが……)。もちろん、ジャレコの野球ゲーム名物・乱闘シーンも、バイオリズム低調期の選手が死球を受けると発生する。
ホームランを打たれるとオーロラビジョンに映る投手が悔しがるが、ここでがっくりしていたらピッチャー交代の合図といった芸の細かい演出面も健在で、試合後には『燃えプロニュース』が流れ、選手のバイオリズム情報をプレーヤーに伝える念の入れようだ。
まさに販促チラシのコピー通りの「バイオリズムで燃える!!今年の野球ゲーム決定版」。昭和最後のシーズンはこのゲームとともにあった。
当時、小学生だった自分も学校から帰ると、手洗い・おやつ・燃えプロ。130試合制で75勝したら日本シリーズへ進めるペナントレースをノートに試合結果、勝利投手、本塁打等を記録してGチームで臨み、“たてのり”の47号3ランで優勝を決めるとファンタグレープでひとり祝杯。ってなんてモテなそうなエピソードなんだ……じゃなくて、2まわり目はマサカリ投法“うらた”が使いたくて太平洋リーグのOチームで参戦。“たてだ”と“まどく”のクリーンアップでペナントを戦った。
ファミスタのような分かりやすさと敷居の低さはなかったが、燃えプロには格好良さとUWF的な戦いのイデオロギーがあった。教室にはその過剰な攻撃的スタイルに惚れ込んだ“燃えプロ男子”も少なくなかったのだ。
惜しまれる「新・燃えプロ」の迷走
しかし、このまま平成もリアル系野球ゲームのトップを疾走するかと思いきや、翌89年7月13日発売の『新・燃えろ!!プロ野球』では、まさかの1塁側スタンド(右バッター時)と3塁側スタンド(左バッター時)視点のカメラで投球と打撃を行う謎すぎる仕様変更。
シリーズ一番の特徴とウリを自ら捨て、『燃えプロ’90感動編』やスーパーファミコンの『スーパープロフェッショナルベースボール』でセンターカメラに戻したものの往年の勢いは取り戻せなかった。
ただ、ときに無謀とも思えるチャレンジ精神もまたジャレコの魅力でもあった。
なお、小説家の原田宗典はエッセイ集『スバラ式世界』(集英社文庫)で初代燃えプロを購入してから約2週間、ほとんど仕事も手につかないほど熱中したことを告白。88年決定版はおよそ1ケ月で1シーズンを戦いきりリーグ優勝を果たすと、日本シリーズでは当時黄金期の西武ライオンズ(Lチーム)を倒し日本一に輝いたエンディング画面を見つめながら感涙にむせびそうになったという。
未来の誰かがクソゲーと笑おうとも、あの頃の僕らには間違いなく神ゲーだった。80年代の終わり、大人も子どもも野球ファンもみんな狂おしいほどハマったのが『燃えろ!! プロ野球’88 決定版』だったのである。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)