監督が直接の謝罪
6日のオリックス-ソフトバンク戦。とあるシーンが大きな注目を集めた。
3回裏、一死走者なしで打席には杉本裕太郎。日本ハム先発の田中瑛斗はフルカウントから果敢に内角を攻めたが、146キロのシュートはそのまま大きな身体に直撃してしまった。
実は初回の第1打席でも147キロのシュートで当てており、杉本にとっては2打席連続の死球。さすがに怒りを鎮めることは難しく、マウンドに歩み寄る仕草を見せる。
ぐっとこらえて一塁へと向かった杉本だったが、両軍ベンチからぞろぞろと入り乱れての一触即発ムードに。そこで颯爽と登場したのが、日本ハムのBIGBOSS・新庄剛志だった。
杉本のもとへと歩み寄ると、マスクで口元は見えないものの言葉を交わし、声を掛けられた杉本にも笑みが。敵将が相手選手に直接謝罪の意を示すという光景が大きな話題を呼んだ。
死球は当然、一歩間違えば選手生命にも影響するアクシデント。その一方で、数多くの死球禍を乗り越えてきた選手が“不屈の男”としてファンに一目置かれるのも事実だ。
今回はそんな“死球”の記録にまつわるエピソードを紹介したい。
重なる死球攻めにぶち切れた!
NPBの通算死球記録の歴代トップといえば、清原和博の「196」だ。
西武1年目の1986年5月23日・日本ハム戦で金沢次男からプロ初死球を記録した清原は、巨人時代の2003年4月15日の広島戦で、8回の5打席目に林昌樹から通算166個目の死球を受け、歴代トップの竹之内雅史(西鉄→阪神)と肩を並べた。
それから9日後、4月24日のヤクルト戦。5-2とリードの7回二死一・三塁のチャンスに代打で登場した清原は、成本年秀から左手甲に通算167個目の死球を受け、ついに歴代単独トップに躍り出た。
18年かけて球界の“死球王”になった清原は、「血やね、血。岸和田の血。当たっても向かっていく」と、日本一過激なだんじり祭りで知られる故郷・大阪府岸和田市を引き合いに出し、闘争心を強調した。
通算196個ともなると、当然ファンの記憶に残る死球エピソードも多い。
西武時代の1989年9月23日のロッテ戦。平沼定晴から左肘に死球を受けた清原は、怒りの表情でバットを平沼に投げつけたあとマウンドに突進。強烈な右飛び膝蹴りをお見舞いした。
この行為により、プロ4年目で初の退場宣告。さらには2日間の出場停止処分も受けている。
巨人移籍後には、阪神・藪恵壱のたび重なる死球攻めにぶち切れ、「今度やったら、しばいたる」(1997年)、「今度来たら、顔ゆがめたる」(1998年)と怒りを爆発させたことも。
また、2005年5月11日のオリックス戦では、山口和男の147キロ直球がヘルメットを直撃。もんどり打って倒れた清原が、むっくりと起き上がった直後、「謝れ!こっちに来て謝れ!」と鬼の形相で叫んだシーンを覚えているファンも多いことだろう。
さらにオリックス時代の2006年4月20日の日本ハム戦では、初回にダルビッシュ有から左手小指付け根部分に死球を受け、全治3週間のケガ。
「次からは命をかけてマウンドに走り、相手を倒したい」と激高したが、現役引退後には「一番痛かったデッドボール」と回想している。
死球がこれほどまでに多くなったのは、対戦する投手が執拗に内角を攻めつづけたのに対し、清原が避けなかった結果ともいわれる。現役生活の後半、ケガに悩まされたのは、その代償と言えなくもない。
プロ入り直後から3年間打撃を指導した土井正博コーチは、「デッドボールの避け方を教えられなかった」ことを今でも悔やんでいるという。
「4打席連続死球」という史上初の珍事?
打席に立つたびに死球を受け、4打席連続死球と当たりまくったのが、広島・松本奉文だ。
2005年4月21日・中日戦。8回二死二塁、黒田博樹の代打で登場した松本は、高橋聡文から死球を受けて一塁に歩いた。これがすべての始まりだった。
登録抹消期間を挟んで、6月8日のソフトバンク戦。3-3の7回二死無走者、森跳二の代打として48日ぶりに打席に立った松本は、斉藤和巳から2打席連続となる死球を受けたが、話はまだ終わらなかった。
翌日のソフトバンク戦。広島は7回に野村謙二郎の右越えソロで1-4としたあと、一死無走者で、松本が末永真史の“代打の代打”で登場。ペドロ・フェリシアーノから左上腕に死球を受け、3打席連続となった。
8回からショートの守備に就いた松本は、1-7の9回一死一塁でこの日2度目の打席に立ったが、今度は三瀬幸司から左足にぶつけられ、ついに4打席連続死球となった。
直後、グレッグ・ラロッカの代打3ランを呼び込み、体を張って最終回の反撃にひと役買った松本は「最初(7回)のは“来た!”という感じでしたけど、2つ目は予想外。でも、当たったところは大丈夫です」と振り返った。
4打席連続死球は、正確な記録は不明ながら、NPB史上初の珍記録ではないかと報じられた。
「僕は当たってじゃなく、打って塁に出たいんですけどね」と複雑な表情の松本は、同年は30試合に出場。
46打席33打数10安打の6死球、さらに5四球で出塁率は.477を記録したが、シーズン後に戦力外通告を受け、スカウトに転身した。
デッドボールで相手投手に「サンキュー」…?
一方で、シーズン最多死球記録を更新したのが、オリックス時代のグレッグ・ラロッカだ。
2007年9月17日のロッテ戦。4回一死無走者で打席に立ったラロッカは、清水直行から右肘にシーズン25個目の死球を受けた。
この瞬間、1952年に岩本義行(大洋など)が記録したNPB記録「24」を55年ぶりに更新。
ラロッカは、ふつうならぶつけられたことを怒っても不思議のないところなのに、なんとスタンドに向かってバンザイポーズを見せ、清水に対しても「サンキュー」と言いたげに一礼するではないか。
「どんな記録であっても、日本で達成する記録はとてもうれしい」という理由からだが、広島時代の2004年にもシーズン23死球(歴代3位タイ)を記録しながら、わずか1差で岩本に並べなかったとあって、3年越しのリベンジを喜ぶ気持ちもあったようだ。
際どいボールに対しても体を引かず、果敢に向かっていく闘志が生んだ新記録に、スタンドからも大きな拍手が贈られた。
そして、このメモリアル・デッドボールがきっかけとなり、この回チームも逆転に成功。
その後、延長12回の末、5-4でサヨナラ勝ち。ラロッカの記録に花を添えた。
試合後も「死球?平気だよ」とニコニコ顔のラロッカは、最終的に「28」まで記録を伸ばし、現在も歴代トップに君臨している。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)