「地元球団」にあこがれて
プロ野球のスタジアムに足を運んだ時のドキドキ感は、野球好きの誰もにとって生涯忘れえない記憶だろう。
愛媛に生まれ育った大本将吾の場合、それはNPB12球団ではなく、独立リーグの風景だった。
「小学3年生くらいだったと思います。無料のチケットをもらったんで、近所の東予球場に行ったのを覚えています。親にパンフレット買ってもらいましたね。NPBとは別だって言うのは知っていましたけど、その違いなんてまだ分からなかったです。それでも、当時の僕らからしたらみんなすごい選手でした」
「その試合はお客さんもすごく入っていて、それもびっくりしました。球場は僕らも使うことがありましたけど、普段は家族しかスタンドにいませんでしたから。あの球場が満員になったのは初めて見ました。どの選手が印象に残っているとかはなかったですけど、そう、松坂大輔投手の弟さん(松坂恭平)がいたのは覚えています」
田舎町の小さなスタンドしかもたない球場だったが、野球を始めて数年の少年には、都会の大スタジアムに勝るとも劣らないキラキラした空間だった。
いま彼は、生まれて始めて見たプロ野球チーム、愛媛マンダリンパイレーツのユニフォームに袖を通している。
キラキラしていたはずの舞台は、実際は閑古鳥の無くスタンドと砂埃舞うフィールドだったが、彼はそこで炎天下、泥まみれになってプレーしていることにある種の充実感を感じている。
「終身雇用」のソフトバンクを離れて
少年はメキメキと頭角を表し、いつの頃からか、当たり前のように“4番”に座るようになった。
東予と呼ばれる県北東部にある実家を離れ、県南部・南予地域の大洲にある帝京第五高校でも、2年から「定位置」に座った。
地元では名の知られた選手にはなったものの、甲子園出場は果たせず、進路をどうしようかと考えているところに舞い込んで来たのが、福岡ソフトバンクホークスからのドラフト指名だった。
但し、それは一軍登録のできない育成選手としてのものだった。それでも大本はプロ入りを決意した。
「孫オーナーの方針だと思うんですけど、ホークスは高卒や育成の選手でも球団が一生面倒見ますよという方針なんです。むしろ高卒の選手の方が、大学進学を蹴ってプロに入ってきたんだから、余計にセカンドキャリアの道筋は作ってあげなければならないという考えなんです。僕も入団の際の説明の中でそれは伝えていただきましたので、思い切ってプロの世界に進めましたね」
実際、球団は「三軍選手」であった大本を、同級生たちが大学にいる間は置いてくれた。
4年目のシーズン終了後、球団から呼び出しがあったときには覚悟はできていた。
なにしろ、プロとしての公式記録に残る二軍でも通算17試合しか出場していなかったのだ。
そんな選手にでも、球団は戦力外通告のその舌の根が乾かぬうちに、もう次のポストを提示してくれた。
球団のジュニアチームのコーチの打診を断る理由はなかった。
しかし、プレーから離れることにした大本に、同郷の先輩・岩村明憲が待ったをかけた。
当時まだ22歳。大学に進んだ同級生はまだプロの世界を知らない。球団の提示に生返事をしながら、大本は岩村に言われるまま、12球団合同のトライアウトを受験した。
それでも、どの球団からもオファーはなかった。大本は今度こそ現役を退く決心を固め、きちんとした返事をしようと球団を訪れた。
しかし、ここでも待ったがかかった。
先輩選手への挨拶回りをする中で、ベテランの川島慶三からプレー継続を勧められる。
そこへ舞い込んできたのが、故郷の球団・愛媛マンダリンパイレーツからのオファーだった。
「プレー継続って言うなら、実際、実業団からもお話は頂いていました。でも、自分としてはもう選手としては終わったつもりでいたんです。岩村さんが監督をしておられる福島レッドホープスからもお話はあったんですが、なにぶん、行ったことのないところでしたし、勇気が要りましたね」
ソフトバンク球団が用意する椅子にも限りがある。次年度に向けてチームスタッフの陣容を決める期限が迫る中、大本は「終身雇用」を蹴る決断をした。
「安定を蹴るではないですけど、なんか野球を続けようかという気になったんです。確かに福岡に残っていれば、後の心配はなかったとは思いますが、ここに来ても、なんとかなっていますし」
NPB復帰から地元への恩返しへ
独立リーグでのプレーについて、大本はこう語る。目標は無論のことNPB復帰だった。
「1年勝負のつもりでした。育成選手とは言え、僕はNPBでそれなりにいい思いをさせていただいてきたので、一度こういう大変な環境を経験してみるのも今後の人生にとって悪くないのかなとも思いました」
しかし、現実は甘くなかった。
NPBのファームでも実績を残せなかった選手がバリバリやれるほど、独立リーグのレベルは低くなかった。
前期シーズンが終わる頃には、大本はユニフォームを脱ぐ覚悟を決めていた。
「思うように結果も残せなかったですし、自分自身がここの環境に慣れてしまったのかもしれません」
独立リーグ2年目は考えられなかった、という大本だが、今なおユニフォームを着続けている。
それは、自分を育ててくれた地元・愛媛への恩返しという気持ちからだ。
「ズルズルいくのも良くないなとは思っていました。でも、最後の1年、地元のチームになにかお手伝いができるのではないかと考えたんです。だから今は、自分のことよりも後輩の面倒を見たいって気持ちの方が強いですね」
シーズンオフには、地元企業に就職の予定だ。野球からは完全に離れるつもりだという。
「自分に何ができるのか、広く世間を見てみたいです。今まで野球しかしてきていないので」
同郷の恩人である岩村にはシーズン前にイベントで再会した時に報告した。
「やるだけやってみなさい」
恩人は、短いはなむけの言葉を送った。
残り2カ月とちょっと。大本将吾は故郷の愛媛で完全燃焼する。
文=阿佐智(あさ・さとし)