野球ゲームの移り変わりから見るプロ野球史~第12回:清原和博編
「お父さんが『お前は好きな野球をやって、大変なカネをもろうてるんや。普通の人に申しわけない、という気持ちでおらなあかんぞ』といったんです。お父さんの言葉を忘れんようにしたいです」
1986年12月10日。19歳の清原和博は人生初の契約更改に臨み、約3.5倍増の推定2200万円で一発サインした直後、記者会見でそう語った。
初代ファミスタと同期のゴールデンルーキー
最強のルーキーは、オフには“新人類”の象徴として流行語大賞の表彰式にも登場するわけだが、この1986年12月10日は野球ゲーム史においても、歴史的な1日となった。ナムコからファミコンソフト『プロ野球ファミリースタジアム』が発売されたのである。
記念すべきファミスタシリーズ1作目において、近鉄・阪急・南海の関西鉄道連合チーム「レールウェイズ」。ロッテと日本ハムの関東食品連合チーム「フーズフーズ」が登場する中、西武ライオンズがモデルの「ライオネルズ」はパ球団唯一の単独チームでの収録。
86年シーズンの西武は球団新記録の主催観客166万人超えで、パ・リーグ全体も史上初の観客600万人突破と、キヨマー人気は各地の球場に多くの客を呼んだ。
そんな球界のニュースターは、ファミスタのチラシの開発中ゲームイメージ画像にも“きよはら”として登場。デモ画面では3番だが、実際のゲームでは「打率.300、32本塁打」でライオネルズの4番を張った。
その後、ファミコンでは各社から野球ゲームが大量に発売される一種のベースボールバブル状態になり、『燃えプロ』の“キヨハラ”、『ハリスタ』の“きよまら”、『がんペナ』の“りよわら”、『プロ野球?殺人事件!』では“きおはらかずひろ”と、まるで間違い探しのようなリネームで目玉選手として登場し続ける。
いわば、80年代後半の清原和博はファミコン野球ゲームの申し子だったのである。
史上最年少1億円プレーヤーとスーファミ登場
好景気に沸く日本列島は平成に突入。たとえ背番号3が死球に怒り、マウンド上にバットを投げつける乱闘騒ぎを起こそうと、『週刊文春』から「バットの1本や2本投げたところでそう大騒ぎすることはない。バットを握りしめたまま駆けよりざまに殴ることもせず、投げつけたのは、ショーマンとしての清原の心意気でさえあるのだ」なんて強引に絶賛されてしまう球界のアイドル。それはライバルの桑田真澄(巨人)が、「投げる不動産屋」と激しくバッシングされる姿とは対照的だった。
堤義明オーナーからの寵愛も受け、西武球場でホームランを放った際にもらえるレオ人形を愛車のフェラーリ・テスタロッサに投げ込み、彼女とのデートへ颯爽と走り去る時代の寵児。マサカリ投法。それは村田兆治。なんつって誰よりも明るく輝く背番号3に少年ファンも憧れた。
清原はプロ5年目の90年8月5日近鉄戦で、ルーキー野茂英雄から22歳11カ月の史上最年少の通算150号アーチを放った(なお、2022年夏に22歳6カ月でこの記録を更新したのがヤクルトの村上宗隆である)。
黄金時代の西武の顔は、この90年に打率.307、37本塁打、94打点、11盗塁、OPS1.068というキャリアハイの成績を残し、チームも日本シリーズで巨人をスイープして日本一に。そのオフの契約更改で、キヨマーはついに史上最年少の1億円プレーヤーとなった。
なお、バブル好景気はすでにピークを超えつつあったが、同時期にゲーム界でもド派手なニュースがあった。90年11月21日に任天堂から新ハード・スーパーファミコンが発売されたのである。
翌91年5月17日、スーファミ初の野球ゲーム『スーパープロフェッショナルベースボール』には、“きよまま”として登場。93年9月30日に世に出た『東尾修監修スーパープロ野球スタジアム』では、新人時代にお世話になった東尾監修作品ということもあり、パッケージのメインキャラクターを務めている。さらに94年3月11日発売の『実況パワフルプロ野球’94』でも、もちろんリーグ5連覇を達成する西武の4番打者だ。
巨人、オリックス時代もプロスピのパッケージに
実際の清原は、97年から死にたいくらいに憧れた巨人へFA移籍するが、90年代後半のプレイステーションやセガサターン、2000年以降のプレステ2の野球ゲームでも存在感を見せる。
記念すべきシリーズ1作目『プロ野球スピリッツ2004』のパッケージには松坂大輔(西武)や新庄剛志(日本ハム)らと並び、YGマークの帽子を被った清原の姿。打率.290、26本塁打、68打点という成績で、ゲーム内の実況では「来年20年目のシーズンを迎えます!」という紹介もあるが、37歳にしてローズ、ペタジーニ、小久保、高橋由伸らが並ぶ強力巨人打線で4番を張るのは背番号5の番長だ。
しかし、正直この頃の下半身に故障を抱え、巨大化した肉体を持て余しているような清原を見るのは、西武アイドル時代のキヨマーを知るファンにはツラかったのも事実だ。
尊敬する長嶋監督や理解者の原監督も去り、堀内監督やフロントとの関係は悪化。それは例えば落合博満が巨人でもオレ流の調整やプレースタイルを貫いた姿とは対照的に、憧れの巨人を意識するあまり自滅しているようにすら映った。
傷だらけのスラッガーは06年にオリックスへ移籍後も、07年4月1日発売の『プロ野球スピリッツ4』のパッケージに若手のダルビッシュ有(日本ハム)や青木宣親(ヤクルト)らと登場。世代を超えた知名度を印象づけるも、同年は左膝の手術を受け一軍出場はなく、翌08年限りで通算525本塁打を放った大打者は現役を引退した。
偶然にも、清原が現役晩年を迎える2005年前後を境に市場からプロ野球ゲームは激減していく。
日韓W杯サッカーの開催などスポーツジャンルの多様化、日本人スター選手のメジャー移籍、地上波から消えつつあったナイター中継……と世の中のプロ野球離れとともに静かにその役割を終えたのである。
同時代を生きた長く現役を続けた選手は他にいても、86年のプロ入り以来、『ファミスタ』、『パワプロ』、『プロスピ』といった各ハードの名作で時代をまたぎ、昭和から平成にかけて20年以上に渡り主役を張り続けたプロ野球選手は、清原和博だけである。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)