メジャーからの“逆輸入”
10月20日に開催された2022年のドラフト会議。支配下では計69人の選手が指名を受けた中、大きな話題を呼んだのが日本ハムが3位で指名した加藤豪将選手(28)だった。
今季はブルージェイズで開幕を迎え、メジャー初安打も放った右投げ左打ちの内野手。日本球界を経ずにメジャーでプレーし、そこから日本球界にやってくる“逆輸入選手”として注目を浴びた。
11月4日に入団が正式に決まり、背番号も「3」に決定。どんな活躍を見せるのか今から期待が高まっているが、そこで気になるのが加藤の“先輩”たちが残した足跡である。
過去にもNPBを経ずに米国でプレーをした後、逆輸入でNPBにやってきた選手が存在する。その草分け的存在と言えるのが、日本人野手では初めて大リーグの球団と契約し、マイナーを経て1972年にドラフト15位でロッテ入りした鈴木弘だ。
テストを経て「ドラフト15位」でプロへ
196センチの長身から打球をピンポン球のように飛ばし、“マンモス”や“ジャンボ”と呼ばれた鈴木。
国士館高時代はレギュラーではなく、大東文化大でも3年間鳴かず飛ばずだった男だが、4年春にレギュラーになると、持ち前の長打力を発揮して打率.377・2本塁打を記録。首都大学リーグ選抜チームに選ばれる。
そして、6月のカリフォルニア大との試合で、米球界注目の左腕から右中間への二塁打を放ったのが、サンフランシスコ・ジャイアンツのキャピー原田スカウトの目に留まり、「アメリカでやってみないか」と誘われた。
村瀬秀信氏の著書『ドラフト最下位』(KADOKAWA)によると、鈴木は「そのときの僕の実力がアメリカで通用するなんて思っていなかった。ただ、僕としても、日本にいたところでドラフトにかかるような選手じゃない。プロの世界で野球ができるのであれば『行ってみたいな』と純粋に思ったので」と、海を渡った理由を説明している。
鈴木は大学卒業を待たず、ジャイアンツとマイナー契約。1970年3月にジャイアンツが日米野球で来日した際には鈴木もメンバーとして同行したが、米国に帰ると1Aに落とされ、シーズン中に解雇。その後、エンゼルス傘下のルーキーリーグに移籍するも、こちらもすぐクビになった。
だが、日本帰国後に再び野球への情熱が高まり、1971年4月にロッテのテストを受けて合格。練習生から同年のドラフト指名を経て、支配下選手になった。
1972年にはイースタンの開幕戦から4試合連続で本塁打を記録したが、弱点の変化球攻めに苦しむうち、直球も打てなくなり、わずか1年で自由契約に。
中日復帰が決まった近藤貞雄投手コーチからは投手転向も勧められたが、すでに「野球に対する気持ちが切れていたから」と断り、25歳で現役を引退した。
日本人投手の“逆輸入第1号”
鈴木の渡米から23年後の1992年、滝川二高を中退して、カリフォルニアリーグ1Aの練習生になったのが、同姓のマック鈴木(本名・鈴木誠)である。
1994年にマリナーズとマイナー契約を結んだ鈴木は、1996年に念願のメジャーデビュー。村上雅則、野茂英雄に次いで3人目の日本人メジャーリーガーになった。
2000年には先発で8勝を挙げるなど、191センチの長身から繰り出す150キロ台の速球を武器にメジャー通算16勝31敗、防御率5.72の成績を残したあと、2002年のドラフトでオリックスに2巡目指名を受け、日本人投手の“逆輸入第1号”になった。
だが、2003年8月1日のダイエー戦で初回に一死も取れず自責点7点を記録。パ・リーグワーストとなる29失点のきっかけをつくるなど、2年間で5勝15敗1セーブ、防御率7.53と結果を出せず、近鉄との合併チームになった2005年は一軍登板のないまま戦力外通告された。
その後はアスレチックスとマイナー契約を結ぶも、メジャー昇格は叶わず。メキシカンリーグや台湾、関西独立リーグなど、36歳までプレーを続けた。
直近も印象的な投手たちが…
マック鈴木同様、メジャー経験後にドラフトを経て逆輸入でNPB入りしたのがマイケル中村だ。
奈良県で生まれ、3歳のときにオーストラリアに移住。その後に渡米して、ツインズやブルージェイズで通算0勝3敗1セーブを記録した。
2005年にドラフト4巡目で日本ハムに入団すると、2006年には5勝39セーブを記録して最多セーブ投手に輝くなど、守護神として2度の優勝に貢献。巨人や西武でもプレーをし、NPB在籍8年間で通算14勝9敗104セーブ・31ホールド、防御率2.61の成績を残した。
“松坂世代”の一人である多田野数人は、立教大時代に上位指名が確実視されていた2002年のドラフトで不祥事により指名漏れすると、渡米してインディアンスとマイナー契約。
2004年にメジャーへ昇格し、通算15試合で1勝1敗、防御率4.47の成績を残したあと、2008年に逆輸入選手では初の“ドラ1”で日本ハムへ入団した。
米マイナー時代に来る日も来る日も初対面の打者と対戦し、「情報のない打者を打ち取る」という目的で習得した球速50~60キロの超スローボールを日本でも何度となく披露。在籍7年間で1完封を含む18勝20敗2ホールド、防御率4.43の成績を残した。
日本ハムは冒頭で紹介した加藤だけでなく、育成3位で指名した山口アタル(テキサス大アタラー校中退)も含めて逆輸入組が多い。
さらに育成から巨人のリリーフエースに出世した左腕・山口鉄也も、横浜商卒業後にダイヤモンドバックスとマイナー契約し、4年間傘下のルーキーリーグでプレーした。
2005年に帰国した後は、3球団のテストを受験。横浜と楽天は不合格になったが、最後に受けた巨人では球筋の非凡さを見抜いた小谷正勝二軍投手コーチの進言で合格が決まり、同年から導入された育成ドラフトで入団。
2年目に支配下を勝ち取ると、通算642試合に登板して52勝29セーブ・273ホールド、防御率2.73を記録し、6度の優勝と2度の日本一に貢献。育成出身の成功者としてクローズアップされるが、逆輸入で最も成功した日本人投手でもある。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)