「背番号1」を受け継いだ森下翔太
球春到来、2月1日は野球ファンにとってのお正月。各地で春季キャンプがスタートし、いよいよ2023シーズンに向けた戦いが本格的にはじまる。
なかでも注目を浴びるのが、プロ野球選手としての第一歩を踏み出す新人たち。阪神のドラフト1位ルーキー・森下翔太は、球団の新人では2004年の鳥谷敬以来、通算7人目の「背番号1」を受け継いだことでも話題に。ファンにとっては、そのお披露目を見るのもキャンプの楽しみのひとつとなることだろう。
伝統球団・タイガースにおける“初代背番号1”は、大阪タイガース時代の1935年12月に契約した内野手・伊賀上良平だった。
同年、松山商の3番打者として春夏の甲子園に出場。夏は優勝に貢献した伊賀上は、名字が「イロハ」順で1番目だったことから、1番に決まったといわれる。
翌36年秋のシーズンで、伊賀上はプロ初本塁打となる満塁本塁打を記録しているが、球団の新人では2012年に伊藤隼太が記録するまで、76年間にわたって唯一の記録だった。
意外と知られていない「虎の1番」
伊賀上以降は、1949年に31歳で入団したハワイ出身の内野手・大舘勲、1954年に立命大を中退して入団した左腕・西尾慈高、1978年にドラフト2位で入団した法大の外野手・植松精一が入団1年目で1番を着けた。
また、1988年にドラフト1位で入団した右腕・野田浩司は3年間1番を着けたあと、トーマス・オマリーに譲り、18番に変更している。
入団1年目に1番を着けた彼らだが、残念ながらいずれも「虎の1番」として印象の薄さは否めない。むしろ、1975年に就任した吉田義男監督が、ビリー・マーチン監督(ヤンキースなど)への憧れから1番を選んだというエピソードのほうが有名なくらいだ。
だが、2004年入団の鳥谷が、阪神の歴代選手では最長の16年間にわたって1番を着け、“阪神の1番は鳥谷”のイメージを定着させたのは、ご存じのとおり。
鳥谷のロッテ移籍後、欠番になっていた虎の1番を4年ぶりに復活させた森下が、鳥谷に続いて背番号1のイメージにピッタリの選手になれるか、注目される。
パ・リーグ最初の永久欠番は“近鉄消滅”で除外に
今度は他球団を見てみよう。新人で背番号1を貰った有名選手といえば、真っ先に王貞治(巨人)の名前が挙がる。
それまで巨人の1番は南村侑広が着けていたが、1957年限りで現役を引退したため、1年のブランクを経て、58年入団の王が受け継いだ。
たまたま1番が空いていたことに加え、「王」を中国語で「ワン」と発音することから、英語のONEにちなんで1番を貰ったという説もある。
現役22年間で通算868本塁打を記録した“世界の王”は、引退後も巨人助監督、監督時代も引き続き背番号1を着けたが、1988年の監督退任後に永久欠番となった。
1966年に近鉄に入団した鈴木啓示も1年目から1番を貰い、通算317勝などの偉業からパ・リーグ最初の永久欠番に。ところが、2004年の球界再編で近鉄がオリックスと合併したことで、球団が消滅。20世紀におけるパ・リーグ唯一の永久欠番は、本人の了解を得て除外された。
鈴木のように高校野球のエースナンバーをプロでも背負った投手はそれほど多くないが、近年では、松井裕樹(楽天)と風間球打(ソフトバンク)が着け、今後はトレンドになりそうな気配もある。
捕手で「背番号1」を着けた谷繁元信
一方、入団1年目に捕手では珍しい背番号1を着けたのが、1989年にドラフト1位で大洋に入団した谷繁元信だ。
14年間1番を着けた名遊撃手・山下大輔が前年に引退したので受け継いだ形だが、横浜時代の93年から8番に変更している。
これは前出の山下が入団するまで15年間1番を着け、「1」に愛着がある近藤昭仁監督が「プロテクターをすると見えなくなるので、やめたほうがいい」とアドバイスしたからだとか。
入団以来、背番号1を背負い、成功を収めた選手たちの一方で、“王2世”と呼ばれた奥柿幸雄(サンケイーヤクルト)、1983年の中日のドラ1・藤王康晴のように、1番の重圧に苦しんだ選手も少なくない。
奥柿以降のヤクルトは、入団1年目の選手が1番を着けることはなくなり、若松勉や池山隆寛、岩村明憲、青木宣親、山田哲人と“ミスタースワローズ”にふさわしい実績を残した選手に与えられるのが、お約束になった。
中日では、1999年入団のドラ1・福留孝介が社会人時代の全日本とアトランタ五輪でも着けていた「自分の中では特別な番号」という1番を受け継ぎ、2002年と06年に首位打者を獲得するなど、主力に成長。
入団4年目から20年間1番を着けた高木守道とともに、チームを代表する“ナンバーワン”になった。
現役時代に5回も変更、2度も「背番号1」を着ける
最後に変わり種を紹介する。1979年の西武創設時にドラフト外入団ながら、初代1番となった小川史だ。当初は2番を着ける予定だったが、ロッテから山崎裕之が移籍してきたため、急きょ1番に変更されたといわれる。
だが、1番を着けていたのは同年の前期(当時のパ・リーグは2シーズン制)までで、後期に新外国人のジム・タイロンが入団すると、24番に変更。その24番も1982年に入団2年目の秋山幸二に譲り、今度は50番と年々番号が大きくなっていった。
翌83年には金銭トレードで南海に移籍し、56番とさらに大きな番号になったが、85年に113試合出場して主力に成長すると、2年間1番を着けていたジェフ・ドイルが退団後の86年に、西武1年目以来7年ぶりに1番に復帰した。
ところが、8年間にわたって着けた1番も、94年に西武から秋山が移籍してくると、再び譲る形になり、31番に変更といった具合にめまぐるしく変わっている。
現役時代に5回も背番号が変わり、在籍2球団で同じ選手に2度も背番号を譲っているのは、背番号1で入団した選手では稀有の例である。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)