昨年は1シーズンで5人が達成
2022年4月10日、ロッテの佐々木朗希が令和初の完全試合を達成したのは記憶に新しい。
NPBでは1994年5月18日の巨人・槙原寛己以来、実に28年ぶりという偉業。あの日、球場にいたほとんどのファンにとって、完全試合を目撃するのは人生初めてだったのではないだろうか。
完全試合ほどではないが、ノーヒットノーランもなかなかお目にかかれない偉業だ。昨季は完全試合の佐々木を含む5人が達成するという歴史的な“当たり年”だったが、本来であれば1年に1回あるかないかの大記録。
そこで今回は、筆者の記憶に深く刻まれているインパクト大の「ノーヒットノーラン」を3つ厳選。時系列で紹介したい。対象は筆者が野球を本格的に見始めた1984年以降とさせていただく。
1987年8月9日:中日-巨人(ナゴヤ球場)
この日のナイターで大記録を樹立したのは、前年のドラフトで中日から1位指名を受け入団した左腕の近藤真一(表記はすべて当時のもの)。
地元愛知・享栄高校のエースとして高校時代から名を馳せていたが、甲子園では3年夏の3回戦進出が最高成績だった。
半年前はまだ高校生だった18歳の近藤。新人監督の星野仙一がプロ初先発の相手として選んだのは名門・巨人軍。
初回先頭打者は「満塁男」の駒田徳広。いきなり3球三振でプロ最初のアウトを奪うと、140キロ台のストレートと大きく縦に曲がるカーブを中心に相手打者を手玉に取っていった。
四球を2つ与えたものの、気づけばノーヒットのまま最終回のマウンドへ。最後の打者はそのシーズン、自身2度目の首位打者を獲得することになる篠塚利夫だった。
近藤がこの日投じた116球目のカーブが内角いっぱいに決まると、主審の手が上がりゲームセット。高卒ルーキーが、プロ初登板でノーヒットノーランを達成するとはいったい誰が想像しただろうか。
ちなみに、近藤は2週間後の阪神戦でも1安打完封を記録するなど、1年目は4勝5敗、防御率4.45という成績を残した。
将来のエースとして大きな期待をかけられた近藤だったが、2年目こそ8勝を挙げたものの、3年目に左肩を故障。それ以降は勝利を挙げることなく、94年シーズン終了後に現役を退いた。
1993年9月4日:ヤンキース-インディアンス(ヤンキースタジアム)
近藤の大記録達成から6年後。当時、高校生だった筆者は映画「メジャーリーグ」や「ミスターベースボール」の影響で、本場アメリカのメジャーリーグをテレビで観戦する機会も増えていた。
そんなとき、偶然目に入ってきたのが、生まれつき右手のない左腕ジム・アボットが大記録を達成した試合だった。
それ以前からアボットの存在を知ってはいたが、しっかりとその投球を見たのはこの試合が初めてだったと記憶している。1球ごとにグラブを持ち替えながら、淡々と投げ続ける姿はまさに新鮮だった。
8回までに5つの四球を与えながらも技巧派らしい打たせて取る投球で、無安打のまま9回のマウンドへ。9回表の先頭打者として打席に立ったのは俊足巧打のケニー・ロフトンだった。
その時点のスコアは「4-0」でヤンキースがリード。インディアンスも走者を溜めていけば逆転してもおかしくない点差だ。
ヤンキースタジアムの多くのファンが立ち上がって声援を送る中、ロフトンはなんと初球にセーフティーバントを試みた(結果はファウル)。その直後、スタジアム全体が大きなブーイングに包まれたのは言うまでもないだろう。
結局、アボットはロフトンを内野ゴロに打ち取ると、次打者のセンターへの大飛球をバーニー・ウィリアムスがつかんで2アウト。最後はカルロス・バイエガをショートゴロに打ち取り、区切りのシーズン10勝目を大記録で遂げた。
1998年8月22日:横浜高-京都成章高(甲子園球場)
1998年の高校野球を席巻したのが神奈川県の横浜高校。前年の明治神宮大会、そして春の選抜を優勝。大本命として迎えたのが夏の甲子園である。
そんな横浜の不動のエースで、精神的支柱だったのが背番号「1」を背負った松坂大輔。1回戦で柳ヶ浦相手に1失点完投勝利を収めると、2回戦の鹿児島実戦、3回戦の星稜戦を連続完封。そして球史に残るPL学園との準々決勝では、延長17回・250球を投げ抜いた。
準決勝の明徳義塾戦は、残り2イニングで6点のビハインド。ついに連勝は止まるかと思われた。しかし、8回裏に4点を返すと、9回表に松坂が登板し、球場の雰囲気は一変。9回裏に3点を奪った横浜が逆転サヨナラという漫画のような展開で勝利をもぎ取った。
決勝の相手は地元・近畿の京都成章。準決勝で強豪の豊田大谷に快勝するなど、5試合で36得点の強力打線が松坂の前に立ちはだかると思われた。
しかし、終わってみれば外野への飛球は2つだけ。最後の打者を含めて11個の三振を奪い、甲子園最後のマウンドをノーヒットノーランで飾ってみせた。
文=八木遊(やぎ・ゆう)