チェコ野球の歴史
この国の野球の歴史は比較的浅い。アメリカ生まれのボールゲームが始まったのは、第1次大戦後の「チェコ・スロバキア」としての独立以降のことだと言われている。
パリで講和会議が開かれた1919年、ビールの町として有名なピルゼンにアメリカ人が伝えたとの伝承がある。
しかし、この頃のチェコの野球は、代用ボールを使用した遊び程度のものに過ぎず、第2次世界大戦の戦火の中、しだいに野球は人々の生活から消えていくことになる。
第2次大戦後、この国に進駐してきたアメリカ軍の兵士がプレーし始めると、現地人の間でも再び行われるようになったが、戦後の世界秩序は、チェコ・スロバキアをアメリカの敵国、ソ連の傘下に組み入れることになった。その結果、「敵性スポーツ」とみなされた野球は、再び人々の間で忘れ去られていった。
それでも細々と続けられていた野球は、東西両陣営の間で「雪解け」が進むと、再興の道を歩むことになる。
1979年には、ナショナルチームがオランダへ遠征。翌年にはこの「欧州の雄」が野球大会・プラハベースボールウィークに参加すべく「鉄のカーテン」を越えて訪問するなど、国際交流が実施されるようになった。
そして1989年には、チェコ・スロバキアは欧州野球連盟に正式加盟した。さらに、1990年代に入っての冷戦終結、野球のオリンピック正式種目への採用は、チェコ・スロバキアの野球の促進の触媒となった。
予選の激戦を制し初の本戦進出を果たす
1993年、チェコとスロバキアが分離独立。トップリーグであるエクストラリガが創設されたチェコ野球は、独自の発展の道を歩むことになり、選手の強化も進んだ。
1998年には、欧州内のクラブ対抗戦、ヨーロピアンカップにおいて、ドラッシ・ブルノが3位に入る健闘を見せた。
世界戦略を進めるMLBもこの国に注目するようになり、1997年には、パベル・ブディスキーがモントリオール・エクスポズとマイナー契約を結び、チェコ人として初めて北米プロ野球に身を投じることとなった。
WBCには予選が始まった第3回大会から参加している。
2012年秋にドイツ・レーゲンスブルクで行われたこの大会の予選では、ドイツ、イギリスに10点以上を失う大敗を喫し、投手力の弱さが露呈するかたちになったが、4年後の第4回大会予選では、地元開催の強豪メキシコ相手に負けはしたものの、1対2という善戦を演じ、敗者復活戦の第1回戦では前回大敗を喫したドイツ相手に15対3で大勝、見事リベンジを果たしている。
今大会は、昨年秋に行われたヨーロッパ5カ国と南アフリカによる予選A組に出場。2回戦でラテンアメリカ勢擁するスペインに21対7と記録的な大敗を喫するも、2つ目の枠を争う敗者復活決勝戦でそのスペイン打線を1点に抑えリベンジを果たし、初の本戦進出をもぎ取った。
メンバーの大半は国内リーグのアマチュア選手
しかし、本大会は茨の道と言えるだろう。メンバーのほとんどは国内リーグの選手。
国内リーグの選手の多くは無報酬でプレーしており、一部いる「プロ契約」選手も野球のプレーではなく、所属クラブのジュニア向けの野球指導に対して報酬を得ているのが実情だ。
つまりプロの精鋭が集まるWBCの舞台にアマチュアチームが参戦するということである。
ロースターの目玉が、一昨年までカブスなどで11シーズン在籍試し、815試合に出場した元メジャーリーガーE.ソガードだけというのはいかにも寂しい。
プロ経験者といえば、あとは、アメリカ独立リーグ最底辺のペコスリーグのロスウェル・インベーダーズで2013年シーズンに3試合にリリーフ登板しただけのJ.バルトと昨シーズン、MLBパートナーリーグのフロンティアリーグで25試合に出場、打率.215のW.エスカラ(サセックスカウンティ)のふたりの独立リーガーがいるだけだ。
チェコは侍ジャパンと同じ、B組で第1次ラウンドを戦う。現実的な目標は次回大会の本戦枠の確保だろう。予選のスコアを見ても、2番手3番手の先発投手に人材がいないのは明白だ。
日本、韓国の2強にオーストラリアが挑む構図のこの組では、上位3カ国との「ガチ勝負」は捨てて、中国相手に全力を尽くす戦いになるのではないだろうか。
文=阿佐智(あさ・さとし)
メンバー
<投手>
M.コバラ
T.デュフェク
M.シュナイデル
D.パディサック
J.ノバク
O.サトリア
M.ミナリク
J.トメック
L.フラウチ
F.カプカ
D.マーガンス
J.ラビノヴィッツ
L.エルコリ
J.バルト
<捕手>
D.ヴァブルサ
M.セルヴェンカ
<内野手>
P.ジマ
F.スモーラ
V.メンシク
E.ソガード
J.ハイトマー
M.プロコップ
J.クビサ
W.エスカラ
<外野手>
A.デュボビー
M.メンシク
M.ムジク
M.クラップ
M.クレイチリク
J.グレップル