「野球人生で一番緊張」
3月8日に開幕した第5回ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)。9日に控える侍ジャパンの初戦を前に、過去4回の大会で話題になった出来事を振り返ってみたい。
今回は、誰もが予想しなかったまさかの代表入りをはたした選手や、メンバー外から代替出場をはたした男たちにフォーカスを当てる。
今大会では、侍ジャパン史上初の日系人選手であるラーズ・ヌートバーが話題を集め、今や“たっちゃん”としてすっかりチームに浸透。日本の野球ファンの間でも認知度が一気に上がった。
また、代替出場というところでは、故障の鈴木誠也に替わって牧原大成(ソフトバンク)が緊急招集。強化試合で打席に立った際には「野球人生で一番緊張しました」というほどのプレッシャーに襲われたという。
「実力もないのになぜ?」
2009年の第2回大会。メジャーリーガーのイチローや松坂大輔に加え、NPBの実力選手たちがこぞって代表入りするなかで、前年出場96試合にとどまり、1度も規定打席に達したことがない巨人・亀井義行(※13年から亀井善行に登録名変更)が選ばれたことが大きな話題となった。
原辰徳監督があえて亀井を選んだのは、「イチローの控え」という理由からだった。
もし他チームの主力を選べば、イチローの陰に隠れて、NPBシーズン開幕前の約1カ月間、実戦にほとんど出られなくなる。さらに渡米後は練習もままならない。そんな役回りは、誰もが嫌がるのが目に見えていた。
交代させる場面がないイチローの控えは、故障などのアクシデントが起きた場合を除けば、イチローを休ませるために最後の守備固めを務めるケースに限られていた。こうした事情を踏まえ、原監督は自チームの選手であり、守備もうまい亀井なら最適と判断したのだ。
だが、和田一浩や金本知憲、赤星憲広ら、実績のある他チームの外野手が相次いで落選したなかで、レギュラーでもない亀井が選ばれたことから、一部のファンの間で「実力もないのになぜ?」「巨人贔屓だ」などと不満の声が上がった。
亀井自身も2021年の引退会見の際に「今だから言えますけど、選ばれたくなかった」と明かしている。落選した選手の気持ちを考えると、辛くて仕方がなかったという。
「選ばれなかった人たちのためにも、声出しだったり、雑用だったりで貢献したいと思って行きました」と黒子役に徹することを決意した亀井は、大会中に打撃不振に陥ったイチローのために、ソックスをユニフォームの上から履く“イチロースタイル”をみんなで真似て無言のエールを贈ることを提案するなど、“陰の力”として日本代表チームのV2に貢献した。
WBCではわずか3試合の出場に終わった亀井だったが、「結果的に行って世界一を獲れたことで何か力を貰えた」の言葉どおり、同年は主に5番打者として打率.290をマークし、25本塁打・71打点とキャリアハイの成績を記録。巨人の日本一に貢献している。
「ただ行っただけで終わった」
次は代表選手のアクシデントにより、急きょ代役を務めた選手たちを振り返ってみよう。
2006年の第1回大会では、1次ラウンド直前にケガで辞退した広島・黒田博樹に代わって、1次メンバーに登録されていた阪神・久保田智之が招集された。
前年に球団最多の27セーブを記録し、2月24日の日本代表チームとの壮行試合でも、12球団代表チームのリリーフとして9回を3人で抑えたのが認められての選出だった。
「こんな形ですが、選ばれてうれしい。調子はまずまずいい。(松坂大輔ら)同級生がたくさんいて心強い。日の丸とか代表には昔から憧れていた」と世界を舞台に活躍を誓った久保田は、3月1日の壮行試合・巨人戦で代表初登板をはたすと、6~7回をパーフェクトに抑え、順調な滑り出しを見せた。
だが、渡米後の3月8日に行われたマリナーズとの練習試合では制球が定まらず、前巨人のロベルト・ペタジーニにバックスクリーン右への3ランを浴びてしまう。
結局このリリーフ失敗が影響し、本番では1試合も登板機会なし。「(阪神で)自分を使わなかったことを後悔させるような活躍をしたいです」とリベンジを誓ったが、これが最初で最後のWBCとなった。
同年は、渡米後に左肩違和感で出場辞退したヤクルト・石井弘寿に代わってソフトバンク・馬原孝浩も緊急招集されたが、久保田と同様に出番なし。
「ただ行っただけで終わった」と悔いを残したが、2009年の第2回大会では5試合に登板し、V2に貢献している。
村田修一の負傷で“白羽の矢”
村田修一(当時横浜)の負傷により、決勝ラウンド直前に代役として米国に緊急招集されたのが、第2回大会の広島・栗原健太だ。
3月19日の2次ラウンド・韓国戦の4回、村田が右中間に安打を放ったあと、右太ももを痛め、途中交代したことがすべての始まりだった。
診察の結果、「右大腿二頭筋損傷」で全治6週間の重傷と判明。22日から始まる決勝ラウンドの出場は不可能となった。
そこで原監督は、村田の代役として、宮崎合宿に参加していた栗原に白羽の矢を立てた。
高松で行われる阪神とのオープン戦に出場予定だった栗原は、球場に移動後、マネージャーから緊急招集されたことを知らされると、広島の自宅にパスポートを取りに戻り、慌ただしく出発した。
準決勝・米国戦の前日にチームに合流した栗原は、決勝の韓国戦も含めて3打数無安打、2三振・1併殺打に終わったが、2試合に出場しただけでV2戦士となり、「結果は出なかったけど、いい経験になった」と幸運を喜んだ。
だが、前年オフに右肘のクーリング手術を行い、まだ痛みが残る状態で無理をしたことが回りまわって、結果的に選手生命を縮めている。日の丸を背負って戦うことの代償もけっして小さくないことを痛感させられる。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)