野球ゲームの移り変わりから見るプロ野球史~第27回:ファミスタ64
「ファミスタシリーズ 最強のゲーム」
これはNINTENDO64ソフト『ファミスタ64』のCMコピーである。ナムコが64初供給ソフトに選んだのは、シリーズ累計1000万本を超える人気野球ゲームだった。
発売は1997(平成9)年11月28日。97年11月……そう、サッカー日本代表が初のワールドカップ出場を決めた「ジョホールバルの歓喜」の約2週間後に世に出た野球ゲームだっちゅーの。って久々に聞くとまったく意味不明な流行語だが、ボキャブラ天国と女性お笑いコンビのパイレーツが流行ったあの頃、野球ゲームは完全に『実況パワフルプロ野球』の天下だった。
94年春の第1作が発売以降、スーパーファミコン、プレイステーション、セガサターンと業界トップを争っていた各ハードでシリーズ展開。当時の野球好きが集まると、パワプロで対戦する日常の風景が定着していた。
なお、雑誌『小学5年生』97年11月号において、スーパーアイドル広末涼子やサッカー日本代表の岡野雅行らと登場するのは、「プロ野球界のプリクラ王」ことヤクルトのドゥエイン・ホージーだ。
97年セ・リーグのホームラン王に輝いたホージーのトレードマークと言えば、ファンからもらったプリクラをびっしりと貼ったド派手な練習用ヘルメットだった。
最初は「そんなもの貼るな」と怒る野村克也監督だったが、ファンからの贈り物を大切にしたい気持ちを伝えると、やがて何も言わなくなったという。
野球ゲーム“元王者”の迷走
そんな時代に発売された『ファミスタ64』だが、当時はその迷走ぶりに戸惑ったファミスタユーザーも多いのではないだろうか。
操作性はシンプルだが、いまいち64独特の形状のコントローラを使いこなせていない印象だ。せっかく野球のベース配置仕様のCボタンユニットも、打者や投手の仕草を出すために使うというもったいない設定だった。
ゲーム内容も、試合中に流行りのコギャルが「打って!みたいな~」とか「超いけてるー」とイラつく野次を飛ばす謎のこだわり多数。お馴染みの試合結果を知らせるナムコスポーツは、当時最新のインターネットブラウザ風デザインで表示されている。
「野球好きの宇宙人、メタル星人がプロ野球を滅ぼしてしまいました。あなたはプロチームを復活させるために選手を探す旅に出ます」と強引すぎる設定を説明される「君の最強チーム」モード。
さらにミニゲームも多数あり、「ノック勝負」や「ベースランニング」はまだ分かるとして、3Dスティックをすばやく上下させて風船を膨らませる「空気早入れ競争」や、お題の絵を時間内に正確に描く「お絵描き勝負」はちょっと意味不明だ。
といいつつ、雪球をぶつけ合って勝負する「雪合戦」は、野球版ボンバーマン的に4人でやると異様に盛り上がる隠れたパーティーゲームの名作だったりするから反応に困る。
なお、プレステ版ファミスタとも言える『ワールドスタジアム2』では、のりぴーこと酒井法子が「私をナイターに連れてって」とラジオCMに登場。「実は、野球ってあんまり好きじゃなかったのりぴー。でも、CM作りのために「ワースタ2」で遊んでたら、なんだか野球に興味が湧いてきちゃいました」なんつって、今なら炎上必至の無理がありすぎるナレーションをかますのであった。
オープニングで表示される「KING OF BASEBALL GAMES」宣言も、かなり苦しい野球ゲーム元王者の迷走。破竹の快進撃を続けるパワプロに対抗しようと、ファミスタは何をウリに戦うのか迷っているようにすら思えた。
オールスターでの「投手イチロー」
ファミコンでの黄金期を知るだけに当時は寂しさすら感じたが、いつだって野球ゲームはその時代の球界を映す鏡だ。90年代は、実際のプロ野球も転換期だった。
95年の野茂英雄のMLB移籍で、日本の野球ファンも本場メジャーリーグのワールドシリーズやオールスター戦をテレビで目にする機会が増えた。その豪華絢爛な雰囲気に、日本球界はこのままでいいのかとショーアップ化へ試行錯誤を繰り返していた時期だ。
例えば、NPBのオールスターでは野手がマウンドに立ちスピードガンで競う“球速コンテスト”や、外野フェンス前からホームベースに向かっての送球で強肩を競う“返球コンテスト”が開催されている(98年はイチローと高橋由伸が最高得点)。
ガチすぎても引かれるし、ふざけすぎてもディスられる。真剣勝負とファンサービスの狭間で悩むプロ野球……。そんな中、起こったのが今も語り継がれる「投手イチロー登板騒動」である。
96年7月21日の第2戦東京ドーム、パ・リーグ4点リードで迎えた9回表二死、あと1人で勝利という場面で全パを指揮する仰木彬監督がいきなり「ピッチャー、イチロー」をコール。
地鳴りのようなどよめきに包まれる4万2938人の大観衆を背にライトから駆け寄り、マウンドで西武の東尾監督からボールを受け取る背番号51。思わず苦笑いする次打者の松井秀喜。すると不機嫌そうにベンチを出た全セ・野村克也監督はゴジラ松井にこう聞く。
「お前、イヤだろう?」
結局、松井がベンチに下がり、代わりにコールされたのが投手の「代打高津」というわけだ。
微妙な空気の中、MAX141キロをマークしたイチローは高津を遊ゴロに打ち取りゲームセット。前年のヤクルト対オリックスの日本シリーズから激しくイデオロギー闘争を繰り広げていた二人の名将、「球宴を冒涜するな」という昭和ストロングスタイルのノムさんと、「投手イチローこそ最大のファンサービス」と考えたパ・リーグ広報部長兼エンターテイナー仰木監督。
ファンの間でも、仰木さんさすがにやりすぎ派と、ノムさんお祭りなんだからイチロー対松井を見せてくれよ派で意見が真っ二つ。印象的だったのが、コーチとしてベンチに座る巨人の長嶋監督が苦虫を噛み潰したような顔をしていたことだ。
「現実とゲーム性の落としどころ」をさがして…
そして、『ファミスタ64』のオールスターモードでも、この「投手イチロー」をしっかり再現できる。選手を選ぶ条件の際に決まった項目を選択すれば中継ぎ投手として、背番号51がブルペンメンバー入りしているのだ。
現実では寸止めのイチロー対松井、さらにはイチロー対清原といった夢の対決が遊べてしまう。同じく64の『プロ野球キング』もイチローの二刀流育成が話題になったが、パワプロがリアルな野球を追求する一方で、他社の野球ゲームは「現実とゲーム性の落としどころ」を模索していた。
90年代中盤から後半にかけて、ファミスタも、野球ゲームも過渡期だったのは間違いない。64で出たファミスタシリーズはこれが最初で最後。確かにハード自体のメインターゲットが子ども中心というイメージは強かったが、一方でNINTENDO64は当時のキッズたちの野球普及に多大な貢献をしていたのも事実だ。
2021年にオリックスへ入団した92年生まれのグレン・スパークマン投手は、21年8月18日付のデイリースポーツにこんなコメントを残している。
「イチローさんが(オリックスで)プレーしていたのは聞いている。小さいころから見ていた選手。ビデオゲーム『ニンテンドー64』のキャラクターとして使っていた。バントしたら絶対セーフになる(笑)。いつもバントさせてました。その選手がここでやっていたのは自分にとっては大きい」
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)