あれから28年……
あの日、背番号8が口にした「夢の続き」が、ひとまず終わりを告げた。
1995年10月8日、東京ドームで開催された原辰徳の引退試合はチケット発売日に即日完売。8万円ものプレミア価格がつき、消化試合のデーゲームにもかかわらずテレビ中継の瞬間視聴率は32.4%を記録した。
この最後の舞台で満身創痍のタツノリは通算382号を放ち、「私の夢には続きがあります」と大観衆に宣言したのち、長嶋監督と涙の抱擁を交わしてユニフォームを脱いだ。
当時、原は37歳だった。あれから28年が経過した2023年10月4日、同じ東京ドームのマイクの前で自ら今季限りで監督を辞任すること、さらに後任として阿部慎之助ヘッド兼バッテリーコーチの監督就任を発表した。
気が付けば、若大将と呼ばれた男も、65歳である。思えば、2001年秋に65歳の長嶋茂雄から、巨人監督の座を託された原は43歳だった。そして、今度は自分があの時のミスターと同じ年齢になり、44歳の阿部慎之助に継承したわけだ。
再建を託されるかつての“投打の柱”
原監督の通算1291勝は巨人監督史上最多。計17年間で2度のV3含む9度のリーグ優勝、3度の日本一。21世紀の巨人の歴史は、そのまま原巨人の栄光の歴史といっても過言ではないだろう。
しかし、今季は一度もV争いに絡むことなく、Bクラスに沈んだ。第一次、第二次政権時に原巨人を支えたのは逆指名ドラフト組と大物FA組だったが、令和の若い才能やスター選手は皆メジャーリーグを目指す時代である。いわば、原監督(と約10年前までの巨人)が得意とした、大物獲得でチームを破壊と再生という手法が難しくなった。
昭和から球界で長く続いた、多くの選手が巨人に憧れる「ジャイアンツ・アズ・ナンバーワン」システムが終わりを告げたわけだが、球界が変わっても、マスコミやOBやファンの意識はそう簡単には変わらない。
2年連続4位でこれだけ騒がれ、後任監督候補がヤフーニュースで連日話題となり、原監督は激しく批判された。なぜなら、昔のような「常勝巨人」ではなくなったから。つまり、世の中や球界のあらゆることが変わっても、一方ではいまだに「巨人はあの頃の巨人であること」を求められるわけだ。冷静に考えたら、かなりの無茶ぶり案件である。
V9時代と比較ってそりゃあ無茶だよ広岡達朗さん状態である。東京ドームでマイクの前に立った後任の阿部ヘッドが、「とてつもない重圧を感じ、身の引き締まるところでございます」という恐ろしく硬い表情での挨拶になったのも無理はないだろう。
ちなみに、1993年に導入されて2006年まで14年間続いた希望入団枠制度のドラフトで、巨人を逆指名した選手は延べ22名。その内、最後までチームに在籍したのが、野手では00年1位逆指名の阿部。投手では、18年オフにFA人的補償で西武へ移籍もコーチでの巨人復帰が報道されている03年自由枠の内海哲也である。いわば、12年の五冠達成の立役者で、平成の逆指名ドラフト組で最後に生き残った投打の柱が、再建を託されたわけだ。
求められる“勝負の鬼”への変貌
「チーム力としては09年の方がダントツに強いと思います。でも、個々の能力であれば、02年のほうが全然上だったと思いますよ。ただ、野球は個人スポーツじゃない。チームなんだとあらためて考えさせられました」
これは『ジャイアンツ80年史 PART.4』(ベースボール・マガジン社)での、02年と09年の日本一になったチームを比較した当時35歳の阿部慎之助の言葉である。
『スラムダンク』の安西監督の言う、「お前の為にチームがあるんじゃねぇ。チームの為にお前がいるんだ!!」を体現する男。まさに“白髪鬼”の異名を持つスパルタ指揮官“ホワイトへアードデビル”路線の、“ブラックへアーべデビル”の誕生だ。
現代のコンプライアンスを意識しつつも、まさに阿部監督には時に勝負の鬼になることが求められる。なぜなら、二軍監督時代から知る若手を育成して勝つ一方で、選手時代にともに戦った長野久義や坂本勇人が30代中盤から後半のベテランとなり、阿部監督が彼らの花道を作って送り出さなければならないケースも考えられるからだ。
この12月で35歳になる坂本は今季終盤から三塁にコンバートされたが、阿部監督も35歳の14年シーズンが終わると捕手から一塁転向。だが、ポジションが被るホセ・ロペスが移籍先のDeNAで大活躍したことは仕方がないとしても、チーム事情で捕手復帰が度々取りざたされ、その度に編成が混乱したのも事実だ。
最終的に選手・阿部は、「代打の切り札」から岡本和真不在時の「代役四番」まで幅広い役割を原監督に与えられ、19年限りで惜しまれながらも現役を引退した。正直、今季の原采配は疑問だらけだったが、あの時の大ベテラン阿部の生かし方は絶妙だった。
名実ともに「令和の巨人軍の始まり」へ
果たして、阿部監督は盟友の坂本に対して、どんな采配を見せるのだろうか?
長嶋監督は選手・原辰徳を見送り、原監督は選手・阿部慎之助のキャリアに終止符を打った。そして、阿部監督は30代後半に突入する選手・坂本勇人をどう起用するのか注目である。
思えば、79年生まれの阿部慎之助は、まだ毎晩の地上波テレビ中継があった長嶋政権の最終年(2001年)にプロデビューしている。いわば、長嶋監督と原監督を選手として知る最後の世代だ。
90年間近い「伝統」と、今の時代に合った「新しさ」の融合という、球団史上でも難易度の高い改革を求められる監督就任だが、選手時代の阿部は勝負に対する「激しさ」と、お立ち台での笑顔弾ける「明るさ」を併せ持った選手だった。
以前、宮崎キャンプで阿部本人にインタビューした際、試合後にスポーツニュースやスポーツ新聞を見るのか聞いたら、「あんま見ないね。勝った日しか見ないかな。勝った翌日、負けたらピーチクパーチク書いてるやついるから(笑)。そんな変な邪念を入れるよりもう見ないで、負けた翌日はまた切り替えて頑張ろうという方が良いからね」と笑い飛ばしていたのが印象深い。ちなみに、ストレス解消法は「楽天ショッピング」だという。
明るく激しい阿部巨人の船出──。なお、今世紀の巨人は9度のリーグ優勝をしているが、そのすべてが原監督である。困ったときのタツノリ状態だ。
19年からの第三次政権の連覇ですら、選手獲得からマスコミ対応まで、昭和のアイドルにして平成の名将・原辰徳に頼りすぎた感は否めない。
だからこそ、阿部監督が優勝して胴上げされた時が、名実ともに「令和の巨人軍の始まり」と言えるのではないだろうか。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)