元祖・ジャーニーマン
巨人・阿部慎之助新監督による体制がスタートしたばかりの巨人が、3日間でソフトバンクの高橋礼、泉圭輔、オリックスの近藤大亮の3投手をスピード獲得するなど、今オフもトレード戦線が活発化している。前記の3人はいずれも今回が初の移籍になるが、過去にはいくつものチームを渡り歩き、“ジャーニーマン”と呼ばれた男たちも存在した。
「旅人」(流しの職人)を意味するジャーニーマンは、米球界では10チーム以上を渡り歩いた選手もおり、メジャー時代の野茂英雄も計7チームに在籍したことで知られる。
日本におけるジャーニーマンの元祖は、戦前から戦後にかけて活躍した通算92勝の左腕・内藤幸三だ。
軟式社会人チーム・東京リーガルのエースとして1934、35年に全国大会2連覇を達成した内藤は、翌36年、NPBの前身・日本職業野球連盟が発足すると、硬式に転向して金鯱軍のエースとなり、同年秋のシーズンでは、139奪三振を記録。当時はタイトルではなかったものの、初代奪三振王になった。その後、41年に金鯱軍が翼軍と合併して大洋軍になると、朝日軍に移籍。戦時下で休止される44年までプレーした。
終戦後の46年に新生球団・ゴールドスターのエースとして復帰をはたした内藤は、48年12月、チームが大映に買収されると、永田雅一オーナーのワンマン体制を嫌って、阪急に移籍。さらに50年の2リーグ制スタートに際し、広島が創設されると、第一次移籍選手として5球団目のユニホームを着た。同年3月14日の国鉄戦で記念すべき球団初勝利を挙げるなど、11勝を挙げた内藤だったが、翌51年、わずか1勝に終わると、35歳で現役を引退し、後にセ・リーグの審判員になった。
内藤とともに草創期の広島を4番打者として支えた“和製ディマジオ”小鶴誠も、中部日本軍、急映、大映、松竹、広島の5球団(中部日本軍の前身・名古屋軍を含めると6球団)を渡り歩いた。“元祖ジャーニーマンの打者版”と呼べるだろう。
NPBでは“史上最多”8球団に所属
NPB史上最多の8球団を渡り歩いたのが、“ジプシー”の異名をとった左腕・後藤修だ。
磐田南高卒業後の1952年に松竹(翌年から洋松)に入団も2年間1軍登板のないまま自由契約になったのが、渡り鳥人生の始まりだった。
54年オフにトンボのテストを受け、内定を貰ったが、テスト生たちに軍隊式の二列縦隊の行進を要求した球団代表に抗議し、自ら入団辞退。その後、東映のテストに合格したものの、55年は5試合登板に終わり、たった1年で戦力外に。
翌56年は大映に移籍し、6勝12敗、防御率3.43と自己最高の成績を残したが、同年オフにチームが高橋(旧トンボ)と合併したことから余剰戦力となり、巨人へ。1年目は26試合に登板したが、2年目は1試合登板に終わり、翌59年、千葉茂が新監督に就任した近鉄に移った。
さらに61年は南海、63年からは西鉄でプレーし、12年間で洋松を含む計8球団を渡り歩いた。野球協約をよく勉強し、契約交渉を有利にまとめたことから、東映以降はすべてテスト入団だったにもかかわらず、移籍するたびに年俸アップをかち取ったエピソードでも知られる。
だが、西鉄を自由契約になった63年オフ、阪急のテストに不合格になったのを機に現役引退。野球評論家を経てゴルフのコーチに転身した。
移籍するたびに増えていった“勲章”
1983年にNPB史上初の全12球団勝利を達成した野村収も、古巣復帰を含めてのべ5球団を渡り歩いたジャーニーマンだ。
69年にドラフト1位で大洋入団も、3年在籍しただけで江藤慎一との交換トレードでロッテへ。「そりゃ、最初のトレードのときは腹が立ったよ」と回想する。だが、移籍1年目に14勝を挙げ、オールスター初出場をはたすなど、新天地で野球人生が大きく開ける。
そのロッテも2年後の74年に金田留広との交換トレードで日本ハムに放出されたが、翌75年に11勝3敗で初タイトルの最高勝率を獲得。さらに78年に1対2の交換トレードで古巣・大洋に復帰すると、17勝を挙げ、最多勝といった具合に移籍するたびに勲章が増えていった。
そして83年、加藤博一との交換トレードで阪神に移籍すると、5月15日の大洋戦で全12球団勝利を達成。交流戦がなかった当時は、セ、パ2球団ずつに在籍しないと達成できないため、まさに「オレのような(渡り鳥)野球人生を歩いてきた者だけに権利がある」という超レアな記録だった。
阪急時代に首位打者を2度獲得した加藤英司も、現役最後の5年間で広島、近鉄、巨人、南海と4度のトレードを経験し、1987年、5球団目の南海で通算2000安打を達成している。
江夏豊も阪神を振り出しに南海、広島、日本ハム、西武と5球団を渡り歩いたが、ジャーニーマンよりも“優勝請負人”のイメージが強い。
江夏に限らず、左腕はトレードの需要が高く、1990年にドラフト2位で大洋入りした東瀬耕太郎は11年間で通算2勝ながら、貴重な左のリリーフとしてロッテ、広島、中日、近鉄と計5球団でプレー。西武、阪神、近鉄、横浜の4球団に在籍した杉山賢人も、3年連続シーズン途中のトレードという“珍事”の主人公になった。
打者では、中村紀洋(近鉄→ドジャース→オリックス→中日→楽天→DeNA)がメジャーも含めて計6球団を渡り歩いた。トラブル絡みの退団劇も1度ならずあったという意味では、“流しの職人”と言えなくもない。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)