グアテマラと聞いてピンとくる人はそう多くないだろう。世界地理に妙に詳しいサッカーファンでも、FIFAランキング127位のこの国の名を聞くことはほとんどない。
野球ファンにとっては、なおさら縁のない国である。周りにはメキシコ、ニカラグア、パナマといった「野球国」がひしめいているのだが、実はこの国にも「プロ野球」がある。
しかし、その実態は、6年前にリーグ戦がスタートしたものの、そのリーグはたった1シーズンで倒産。
「プロ野球の灯を消すな」とばかりに翌シーズンから新たに別のリーグが立ち上がったが、それも年々規模を縮小し、この冬のシーズンは、「選手報酬はなし。『参加料』を払えば、シーズン中の生活の面倒を見てやる」というトライアウトリーグもどきのものになり果ててしまった。
そんなリーグでも、プレーの場を求めて世界各国からベースボーラーたちが集まってくる。
土田佳武(かむ)もそんなひとりだ。
2022年シーズンのルートインBCリーグ二冠王という肩書をもってはいるが、アマチュア時代は全くの無名でもなければ、プロスペクトでもない。独立リーグによくいる「中途半端な選手」だった。
天才野球少年が、高校野球の名門で頭を打つというのはよくある話だ。東京生まれの土田も、春夏通じて甲子園出場16回を誇る山梨学院高校に進んだ時に、鼻をへし折られた。
「入ってすぐ、なんか周りの雰囲気全然違うなあって感づきました。1年のうちはバットにボールが当たりませんでした(笑)」
それでも努力の甲斐あって、3年の時には1番バッターとして甲子園出場を果たした。しかし、土田は自分の才能に限界を感じていた。打つ方は、甲子園で見た選手にかなわないとは思わないが、なにせ守備が全然だめ。野球は高校までにしよう。プロなんかとんでもない。
実際、とてもじゃないがかなわないとそのプレーを眺めていた同期の主将、瀧澤虎太朗(ENEOS)は社会人ベストナインにも選ばれているものの、プロ入りは果たせていない。
そんな彼の運命を変えたのはその瀧澤だった。最後の夏が終わった後、「お前どうすんの?」と聞かれた土田は、「大学では野球続けないかな」と返したが、瀧澤はそんな土田を翻意させようとした。
「お前そんだけいい体してて、なんで辞めんだよ」
その言葉が土田の人生を変えた。
「言われてみれば確かに、自分の代には1番打たせてもらえるようになってましたし、自分の中でも、ある程度うまくプレーできるようになり始めてましたから。他人もそう思っているってことは可能性があるんだろうなって」
幸い、強豪というわけではなかったが、国立でありながら比較的スポーツに力を入れている和歌山大学がスポーツ推薦で土田を受け入れてくれた。
大学もある意味、「中途半端な」ところだったが、これが土田の性には合っていたのだろう。入部して即試合にも出場でき、チームも近畿学生野球リーグで悲願の初優勝を果たした。
その勢いで、大学全日本選手権でも国立大学歴代最高のベスト8まで駒を進めたのだ。
このあたりで土田の中でさらに欲が出てきた。
「2年生くらいから普通に就職するんじゃなくて、社会人でプレーしたいなって思うようになりました。もっと上のレベルでやりたいって」
そんな思いをさらに強くしたのがコロナ禍だった。最高学年となった春のリーグが中止。完全燃焼の場を奪われた土田は、卒業後のプレー続行を決意する。
そんな土田のもとに、実業団チームから声がかかった。しかし、「野球と社業の両立」、「社業優先」という会社の説明に、彼が首をタテに振ることはなかった。
「そのまま実業団に行っても、どっちつかずになるんじゃないかって思ったんです。社会人に進むならできるだけ長くやりたいと思っていましたが、新興のチームということもあって、会社の方針が変わるかもしれないですし。それで、社業も中途半端、野球も中途半端になるくらいだったら、最後、野球をしっかりやって突き詰めていきたいみたいな、行けるとこまで行きたいなってなって、監督さんとも相談して独立リーグに進むことを決めました」
土田は、「中途半端」からの決別を決意した。3年、これが土田が自分に与えた「猶予期間」だった。
BCリーグのトライアウトには背水の陣で臨んだ。実業団を断った以上、ここで受からないと行き先はない。幸い、トライアウトには合格、強豪の一角である信濃グランセローズへの入団が決まった。
しかし、ここでも土田は頭を打つ。自慢の長打力も強豪大学出の猛者たちの前では霞んでしまった。
結局、故障もあり、土田は独立リーグでのルーキーシーズンをほとんど棒に振った。独立リーグとは言え、プロはプロ。シーズン終了後、土田はチームを去ることになる。
「シーズン最終戦が終わった後、全選手に対して面談があるんです。残って欲しい選手には球団が『来年も』って言うし、自分から辞める選手はその旨を球団に伝えるんです。僕は、『戦力的に来年はうちとしてはあんまり考えてない』って言われました。要するに自由契約です」
「むっちゃNPB行きたいとかではなかった」と土田は言う。野球を続けるからには高いレベルで野球がやりたいっていうような漠然とした気持ちで入った独立リーグだったが、NPBへの重い扉をなんとかこじ開けようと、独立リーグの門を叩いた者たちと気持ちの面で甘さがあったのかもしれない。自分が決めた年限はあと2年残されている。土田は、藁をもすがる思いで、オフのトライアウトチーム、「アジアンブリーズ」に参加した。
ここでの経験が現在の土田の基礎となった。
このトライアウトチームへの参加が縁で、同じBCリーグのライバル球団、茨城アストロプラネッツに入団。ここで、眠っていた土田の才能が開花した。
「GMがアジアンブリーズの主宰者だったんですよ。そのGMやコーチから自分の可能性について話をしてもらって自信がもてるようになったんです」
移籍1年目、レギュラーポジションを任された土田は、アマチュア時代エリートコースを歩んできた猛者たちやNPB経験者を抑え、本塁打と打点の2冠を獲得する。
そしてさらなる飛躍を求めて、NPBの若手選手も参加するオーストラリアのウィンターリーグ、ABLにプレーの場を求め、ニュージーランドに本拠を置く、オークランド・トゥアタラで冬のシーズンを過ごした。
「それまでは、オフシーズンっていうのは、ウエイトやトレーニングの期間っていう認識だったんですけど、プラネッツに入ってから考えが変わりましたね。独立リーガーにとって、オフってアルバイトで生活費を稼ぐ期間でもあるんですが、お金をバイトで稼ぐんじゃなくて、野球で稼ぐっていう意識に変わりました」
実戦に勝る練習はない。ABLでの武者修行はすぐに結果となって現れた。2023年シーズン、初の3割をマークしたのだ。
野球ファンにとっては、なおさら縁のない国である。周りにはメキシコ、ニカラグア、パナマといった「野球国」がひしめいているのだが、実はこの国にも「プロ野球」がある。
しかし、その実態は、6年前にリーグ戦がスタートしたものの、そのリーグはたった1シーズンで倒産。
「プロ野球の灯を消すな」とばかりに翌シーズンから新たに別のリーグが立ち上がったが、それも年々規模を縮小し、この冬のシーズンは、「選手報酬はなし。『参加料』を払えば、シーズン中の生活の面倒を見てやる」というトライアウトリーグもどきのものになり果ててしまった。
そんなリーグでも、プレーの場を求めて世界各国からベースボーラーたちが集まってくる。
土田佳武(かむ)もそんなひとりだ。
「中途半端」だった未完の大器
2022年シーズンのルートインBCリーグ二冠王という肩書をもってはいるが、アマチュア時代は全くの無名でもなければ、プロスペクトでもない。独立リーグによくいる「中途半端な選手」だった。
天才野球少年が、高校野球の名門で頭を打つというのはよくある話だ。東京生まれの土田も、春夏通じて甲子園出場16回を誇る山梨学院高校に進んだ時に、鼻をへし折られた。
「入ってすぐ、なんか周りの雰囲気全然違うなあって感づきました。1年のうちはバットにボールが当たりませんでした(笑)」
それでも努力の甲斐あって、3年の時には1番バッターとして甲子園出場を果たした。しかし、土田は自分の才能に限界を感じていた。打つ方は、甲子園で見た選手にかなわないとは思わないが、なにせ守備が全然だめ。野球は高校までにしよう。プロなんかとんでもない。
実際、とてもじゃないがかなわないとそのプレーを眺めていた同期の主将、瀧澤虎太朗(ENEOS)は社会人ベストナインにも選ばれているものの、プロ入りは果たせていない。
そんな彼の運命を変えたのはその瀧澤だった。最後の夏が終わった後、「お前どうすんの?」と聞かれた土田は、「大学では野球続けないかな」と返したが、瀧澤はそんな土田を翻意させようとした。
「お前そんだけいい体してて、なんで辞めんだよ」
その言葉が土田の人生を変えた。
「言われてみれば確かに、自分の代には1番打たせてもらえるようになってましたし、自分の中でも、ある程度うまくプレーできるようになり始めてましたから。他人もそう思っているってことは可能性があるんだろうなって」
幸い、強豪というわけではなかったが、国立でありながら比較的スポーツに力を入れている和歌山大学がスポーツ推薦で土田を受け入れてくれた。
大学もある意味、「中途半端な」ところだったが、これが土田の性には合っていたのだろう。入部して即試合にも出場でき、チームも近畿学生野球リーグで悲願の初優勝を果たした。
その勢いで、大学全日本選手権でも国立大学歴代最高のベスト8まで駒を進めたのだ。
このあたりで土田の中でさらに欲が出てきた。
「2年生くらいから普通に就職するんじゃなくて、社会人でプレーしたいなって思うようになりました。もっと上のレベルでやりたいって」
そんな思いをさらに強くしたのがコロナ禍だった。最高学年となった春のリーグが中止。完全燃焼の場を奪われた土田は、卒業後のプレー続行を決意する。
そんな土田のもとに、実業団チームから声がかかった。しかし、「野球と社業の両立」、「社業優先」という会社の説明に、彼が首をタテに振ることはなかった。
「そのまま実業団に行っても、どっちつかずになるんじゃないかって思ったんです。社会人に進むならできるだけ長くやりたいと思っていましたが、新興のチームということもあって、会社の方針が変わるかもしれないですし。それで、社業も中途半端、野球も中途半端になるくらいだったら、最後、野球をしっかりやって突き詰めていきたいみたいな、行けるとこまで行きたいなってなって、監督さんとも相談して独立リーグに進むことを決めました」
土田は、「中途半端」からの決別を決意した。3年、これが土田が自分に与えた「猶予期間」だった。
プロ目指して独立リーグへ
BCリーグのトライアウトには背水の陣で臨んだ。実業団を断った以上、ここで受からないと行き先はない。幸い、トライアウトには合格、強豪の一角である信濃グランセローズへの入団が決まった。
しかし、ここでも土田は頭を打つ。自慢の長打力も強豪大学出の猛者たちの前では霞んでしまった。
結局、故障もあり、土田は独立リーグでのルーキーシーズンをほとんど棒に振った。独立リーグとは言え、プロはプロ。シーズン終了後、土田はチームを去ることになる。
「シーズン最終戦が終わった後、全選手に対して面談があるんです。残って欲しい選手には球団が『来年も』って言うし、自分から辞める選手はその旨を球団に伝えるんです。僕は、『戦力的に来年はうちとしてはあんまり考えてない』って言われました。要するに自由契約です」
「むっちゃNPB行きたいとかではなかった」と土田は言う。野球を続けるからには高いレベルで野球がやりたいっていうような漠然とした気持ちで入った独立リーグだったが、NPBへの重い扉をなんとかこじ開けようと、独立リーグの門を叩いた者たちと気持ちの面で甘さがあったのかもしれない。自分が決めた年限はあと2年残されている。土田は、藁をもすがる思いで、オフのトライアウトチーム、「アジアンブリーズ」に参加した。
ここでの経験が現在の土田の基礎となった。
このトライアウトチームへの参加が縁で、同じBCリーグのライバル球団、茨城アストロプラネッツに入団。ここで、眠っていた土田の才能が開花した。
「GMがアジアンブリーズの主宰者だったんですよ。そのGMやコーチから自分の可能性について話をしてもらって自信がもてるようになったんです」
移籍1年目、レギュラーポジションを任された土田は、アマチュア時代エリートコースを歩んできた猛者たちやNPB経験者を抑え、本塁打と打点の2冠を獲得する。
そしてさらなる飛躍を求めて、NPBの若手選手も参加するオーストラリアのウィンターリーグ、ABLにプレーの場を求め、ニュージーランドに本拠を置く、オークランド・トゥアタラで冬のシーズンを過ごした。
「それまでは、オフシーズンっていうのは、ウエイトやトレーニングの期間っていう認識だったんですけど、プラネッツに入ってから考えが変わりましたね。独立リーガーにとって、オフってアルバイトで生活費を稼ぐ期間でもあるんですが、お金をバイトで稼ぐんじゃなくて、野球で稼ぐっていう意識に変わりました」
実戦に勝る練習はない。ABLでの武者修行はすぐに結果となって現れた。2023年シーズン、初の3割をマークしたのだ。
初のラテン野球はグアテマラ
そんな土田が、この冬のプレー先として選んだのは、野球の世界ではあまりきかない中米のグアテマラだった。
同じ中米のパナマやニカラグアはWBCにも出場していることからわかるように、野球が盛んであるのだが、そもそもこの国は、野球連盟はあるものの、世界野球ソフトボール連盟(WBSC)にもいまだ加入していない。ソフトボールはそこそこ盛んであるのだが、野球は細々と行わているにすぎない。
「だから、ほんとはオーストラリアのアマチュアリーグでプレーしたかったんです。あっちは野球で給料出ないけど、バイトすれば給料高いんで、やっていけるんです。がんばれば、ABLのチームと契約もできるみたいだし。でも、もうロースターが埋まっちゃって…」
昨年のオフシーズンを過ごしたニュージーランドの球団がなくなってしまい、最初はオーストラリアでのプレーを模索したものの、それもかなわず、途方に暮れているところに、かつてのチームメイトからグアテマラの話が舞い込んできたというわけだ。
渡航費は自前で、参加費も数万円取られた。しかし、現地に着きさえすれば、シーズン終了まで、住むところと食事が用意され、球場までの交通費代わりだと、バスのカードが渡された。
とは言え、最初話を聞いて、いざ行き先のグアテマラという国を調べてみると、評判は極めて悪い。治安は中米でも最悪レベルらしい。
少々不安に感じながら、ロサンゼルス経由でグアテマラシティの空港に降り立ったが、ちゃんとリーグのスタッフが迎えに来てくれ、シーズン中暮らす寝床まで運んでくれた。
そこはホテルではなく、まさに「寝床」とでもいうべき、バックパッカー用の安宿だったが、リーグに参加しているチームのベネズエラ人コーチがオーナーを務めていることもあり、「住民」の大半はリーグに参加する外国人選手だった。日本人選手6人全員が一緒だったこともあり、不便を感じることはなかった。
「いろんな経歴の人、年齢層の選手いるなあって感じました。ドミニカやメキシコ、パナマの選手たちも来てますし、みんなそれぞれのバックボーンがあって、話聞いているだけでも面白かったです」
ここに集う選手は、無論、ただ野球をしに来ているのではない。グアテマラウィンターリーグが終わるのは、12月半ば。他国のウィンターリーグが佳境を迎えるころだ。ウィンターリーグでは、年明けからのプレーオフを前に、メジャー球団と契約を結んだ選手が抜けていくことが多く、そこに新たな選手の需要が生じる。そこを狙って、契約を取りにいくのだ。土田もそのつもりでグアテマラでのシーズンに臨んだ。
球場や練習環境は思っていたよりも良かったと言う。
「グラウンド、ガタガタなのかなと思っていたんですけど、全然普通でした。まともな球場はここひとつしかないみたいですけど。その分、ちゃんと整備の人もいるし、スプリンクラーもついてます。試合数もそんなに多いわけじゃないので、手入れするも行き届いています。ちょっと土が緩いかなって思うこともあるけれど、プレーには問題ないです」
守備苦手という土田だが、ここグアテマラでは経験のない、内野の要、ショートを任され、無難にこなした。
「外野手はもう埋まっているからってことで(笑)。まあプレーできるならどこでもいいです。自分の経験にもなりますし。プレーオフからは、負けたチームからショートを補強するみたいなんで、外野に戻ると思いますけど」
自慢の打撃の方は、ここでは「レベチ」状態で、.385の打率を残し、レギュラーシーズン終了後のホームランダービーには、「日本代表」として出場し、地元グアテマラ出身の元マイナーリーガーやドミニカ人スラッガーと渡り合った。
所属チーム「ロボス」は、プレーオフで敗退。クリスマスを前に土田はグアテマラを離れた。日本帰国後、所属先の茨城アストロプラネッツから兼任コーチ就任が発表された。自ら「独立リーグでは3年」と決めていた中での4年目は、選手としてだけでなく、指導者としての修行も兼ねたシーズンとなる。
「年齢的にNPBっていうのは難しいことは自覚しています。でも、海外というプレーの場まで視野を広げると、プロとしてプレーする場はまだあると思うんですよね。だから、プレーできるうちは現役を続けていこうと思います。選手としての経験は、選手の時にしか積めないと思うので。それに、今後コーチとしてやっていくための引き出しを増やすためにもプレーできるうちは日本でもプレーしていきたいですね。それでオフシーズンには海外でっていうのが今のところのプランです。選手とコーチの両輪を歩ましてくれているので、まずはチームに恩返しですね。自分を2年間、選手として育ててくれたプラネッツに還元できるように頑張ります」
振り返れば、海外の野球に初めて触れたのが、独立リーグ1年目を終えてクビになった後のアメリカでの武者修行だった。「中途半端」な土田をたくましく変えていった。そして、プラネッツで花開いた土田の視線は世界へと広がっていった。
「アメリカでプレーして、こんな世界もあるんだっていうのを感じて、そこからですね。その後、ニュージーランド行って、今年は中南米。次はどこ行こうかな」
土田佳武の「旅」はまだまだ続く。
文=阿佐智(あさ・さとし)