移籍先で花開いた助っ人たち
巨人を1年で自由契約になったグレゴリー・ポランコが、ロッテ移籍1年目の昨季、26本塁打を記録し、球団では落合博満以来、37年ぶりの本塁打王に輝いた。そして、過去にも最初に入団したチームでは活躍できなかったのに、移籍先で花開いた助っ人たちが存在する。
最初のチームではパッとしなかったのに、移籍後、突然変異のように本塁打を打ちまくったのが、西鉄時代のフランシス・アグウィリーだ。
ハワイ出身のアグウィリーは、空軍時代に初めてボールを握った変わり種で、1962年、22歳で大洋に入団。当初、三原脩監督は振り回すだけのバッティングを見て、「すぐには使えない」と判断したが、軽くミートしただけで遠くに飛ばす腕力の強さに「磨けば光る玉」と期待をかけた。
さらに、銚子キャンプで主砲・桑田武が骨折したことから、代役として開幕から7番サードで出場。その後、外角球の流し打ちをマスターしたアグウィリーは、7月中旬に規定打席不足ながら打率を3割3分台まで上げ、“隠れた首位打者”と呼ばれた。
しかし、秋以降は失速し、打率.293、6本塁打、29打点。2年目以降は苦手の高めを攻められ、63年は.253、3本塁打、18打点、64年は.201、3本塁打、14打点と年々成績も下がっていった。
だが、65年に金銭トレードで西鉄に移籍し、登録名を「アグリー」に変えると、持ち前の研究熱心さから、パ・リーグのストライクゾーンがセ・リーグより高めに厳しいことに着目した。
高めを捨て、得意の低めに絞った結果、打率.282、チーム最多の24本塁打、72打点と、頼れる主砲に。中西太監督も「これほど使いものになるとは、実のところ、思っていなかった。いい買い物をした」とニンマリだった。
一度はアグウィリーを放出した大洋も惜しくなったのか、67年に呼び戻しているが、2年間で14本塁打とあまり活躍できなかった。69年には阪急でもプレーし、当時の助っ人では最多の延べ4球団に在籍した。
1年でクビも移籍先で本塁打を量産
アグウィリー同様、移籍後に登録名を変えたのが吉と出たのが、ロジャー・レポーズだ。
1973年に西鉄を買収したばかりの太平洋に入団。開幕から4番を打ち、前年最下位だったチームも開幕5連勝と勢いに乗った。ところが、4月22日の南海戦で自打球を右膝に当て骨折。5月末に戦列復帰も、打率.220、12本塁打と振るわず、たった1年でクビになった。
だが、捨てる神あれば拾う神あり。翌74年、“問題児”ジョー・ペピトーンに来日をすっぽかされ、4番不在に陥ったヤクルトが、入団テストで右膝に不安のないことを確かめたうえで獲得。心機一転登録名を「ロジャー」に変えたところ、25本塁打を記録し、「ピストル揃いの打線で、大砲が一枚加わったのは大きいぜ」と荒川博監督を喜ばせた。
翌75年には打率.292、27本塁打、70打点でベストナインに選ばれ、36歳になった76年にもキャリアハイの36本塁打と81打点をマークするなど、ヤクルト在籍4年間で通算110本塁打を記録した。ちなみに、ヤクルトは、95年にもロッテを1年でクビになったヘンスリー・ミューレンス(登録名はミューレン)を獲得し、長打力不足を解消している。
最初に入団したチームで監督に干され、1年でお払い箱になったのに、2年後に再来日すると、いきなり本塁打王になったのが、スイッチヒッターのフェルナンド・セギノールだ。
2002年、オリックスに入団したセギノールは、5月5日の近鉄戦、同6日のロッテ戦でNPB史上初の「2試合連続左右打席本塁打」を記録するなど、頼れる主砲ぶりを発揮した。だが、その後、相手投手から研究され、打率が急降下すると、「あいつはいいね」と褒めていた石毛宏典監督の評価も下がっていく。
そして、6月22日からの西武3連戦では、2日前の近鉄戦で4打数無安打2三振に終わったセギノールを3打数3三振のスコット・シェルドンとともにスタメンから外し、助っ人抜きの打線を組んだ。
これに対して、セギノールが「監督の起用法について言う権利はないけど、チームの勝利を追求したときに(外国人を使わないのは)どうなのかな?」と疑問を呈すると、石毛監督は「そうする(勝利を追求する)から外すんだよ。いくつ三振をしてるかわかっているのか?」「何で干されているのか、自分で気がつくまで使わない」などと突き放し、8月26日に登録抹消。セギノールはそのまま1軍に戻ることなく、打率.204、23本塁打、47打点で、9月21日に自由契約となった。
「早い時期に決定してくれたのはありがたい。今後は日米を問わず、プレーできるチームを探したい」と出直しを誓ったセギノール。翌03年、ヤンキース傘下の3Aコロンバスで打率.341、28本塁打、87打点と打ちまくり、メジャーに再昇格を果たす。この活躍ぶりに、4番候補を探していた日本ハムが目をつけ、04年に再来日が実現した。
4月に打率4割で月間MVPに輝いたセギノールは、今度は失速することもなく、打率.305、44本塁打、108打点で、松中信彦(ダイエー)と本塁打王を分け合った。
以後、2007年まで日本ハムで4年間プレーし、通算122本塁打を記録。さらに08、09年の楽天を経て、日本での最終年となった10年には、因縁のオリックスでプレーしている。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)