今季もキャンプ地やオープン戦で新外国人のプレーぶりが話題を集めている。だが、期待の助っ人も、いざシーズンが始まれば、まったくの当て外れだったことも少なくない。鳴り物入りで入団しながら、ほとんど活躍することなく、早々とダメ出しされた助っ人たちをプレイバックしてみよう。
まずは伝統的に“外れ”の助っ人が多い巨人から。名前すら忘れられた影の薄い選手もいるなかで、「そういえば、いたなあ」とファンにかろうじて名前を記憶されている一人が、1996年に入団した三塁手、ジェフ・マントだ。
オリオールズ時代の前年6月、3試合にまたがって4打数連続本塁打を記録し、89試合で17本塁打を放ったマントは、“スーパーマント”の異名とは裏腹に、オープン戦から精彩を欠き、4月5日の開幕戦、阪神戦では9-0の圧勝にもかかわらず、マント1人だけが5打数無安打3三振と蚊帳の外。
渡辺恒雄オーナーも「1人だけトンマがいる」と不満をあらわにした。さらに翌6日の阪神戦も3打数無安打2三振に終わったばかりでなく、4回一死二塁、湯舟敏郎の投ゴロで走者の桧山進次郎を二、三塁間に挟んだにもかかわらず、ノータッチプレーでオールセーフと、攻守にわたって足を引っ張った。
4月12日の横浜戦で、開幕から22打席目でようやく初安打を記録も、その後も調子は上がらず、リリーフ陣強化のため、マリオ・ブリトーの獲得が決まると、同23日にスピード解雇された。10試合で27打数3安打1打点0本塁打では、「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだよ」と渡辺オーナーに酷評されるのも、無理はない?
前出のマント同様、全然活躍できなかったのに、ファンに名前だけは記憶されているもう一人が、2005年に来日したダン・ミセリだ。
メジャー通算41勝35セーブを記録した最速98マイル(約158キロ)の剛腕は、入団会見で50セーブを目標に掲げながら、「常時150キロを超える」とアピールした自慢の速球が140キロそこそこしか出ず、開幕から2試合続けて救援に失敗。登板4試合で0勝2敗、防御率23.63という惨憺たる成績で、前出のマントより早い球団最速の4月19日に解雇された。
退団当日、家族連れで浅草観光に出かけたことから、ミセリをもじった“仲見世リ”の呼称が広まり、結果的に名を残した。
2021年、巨人に入団した外野手のエリック・テームズも、コロナの影響で来日が遅れ、デビュー戦となった4月27日のヤクルト戦で、守備中に右足アキレス腱を断裂。たった1試合2打席で日本を去った。だが、上には上がいる。1971年に大洋入りしたフリオ・リナレスは、たった1打席で見切りをつけられている。
4番候補として迎えられながら、わずか20試合で「自信をなくして」退団したのが、1987年のシーズン開幕直前に大洋入りしたシクスト・レスカーノだ。
メジャー通算148本塁打の強打者は、4月19日のヤクルト戦、5番ライトでデビューすると、いきなり4打数3安打の猛打賞。三塁線をあっという間に抜いた来日初安打は、相手野手を「速過ぎるよ」と驚嘆させた。
その後も5月3日の阪神戦で来日1号、同9日の巨人戦で2本塁打を放つなど、打率.313、3本塁打、7打点と、ここまでは順調だったが、その後、22打席無安打とさっぱり打てなくなり、打率は.217まで下降した。
そして、同17日、「140キロの球が打てず、自信をなくした」と突然現役引退を発表し、退団帰国。5月5日にデビューしたヤクルトの新助っ人、ボブ・ホーナーが4試合で6本塁打と打ちまくり、“赤鬼旋風”を起こした直後に急失速したことから、“ホーナー・ショック”とも言われた。
1997年に近鉄入りしたメジャー通算39勝の右腕、ボブ・ミラッキも、もともと体重104キロの巨漢ながら、110キロ以上はありそうなウエートオーバーで来日。3月29日の練習試合で9失点KOされるなど、調整不足のまま開幕を2軍で迎えたが、6月に1軍昇格後も、ピリッとしない。
同27日の西武戦では初回に4連打で2点を失ったあと、ドミンゴ・マルティネスに3ランを浴びたが、「普通なら(走者なしになって)あそこで流れが切れると思うやろ」と続投させた佐々木恭介監督の温情も裏目に出て、1イニング10失点と大炎上。メジャーで二桁勝利2度の実績もどこへやら、登板6試合、0勝2敗、防御率7.30で、退団帰国している。
2004年に阪神入りしたマイク・キンケードは、オープン戦で打率4割をマークし、開幕時は3番を打ったが、開幕から7試合で6死球を受けるという“当たり屋”ぶりで、評判になった。
4月9日の中日戦では、マーチン・ガルバスからヘルメットの左こめかみ部分に通算6個目の死球を受け、激高してマウンドに向かいかけたところで、意識朦朧となり、バッタリ……。同21日の中日戦では、山本昌の内角低め直球が踏み出した右膝に当たったが、渡真利克則球審は「わざと当たった」として、ボールの判定を下した。
結局、出場26試合で12死球というトンデモ記録を残し、肝心のバットのほうは、打率.233、3本塁打、7打点と湿ったまま日本を去った。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
「1人だけトンマがいる」
まずは伝統的に“外れ”の助っ人が多い巨人から。名前すら忘れられた影の薄い選手もいるなかで、「そういえば、いたなあ」とファンにかろうじて名前を記憶されている一人が、1996年に入団した三塁手、ジェフ・マントだ。
オリオールズ時代の前年6月、3試合にまたがって4打数連続本塁打を記録し、89試合で17本塁打を放ったマントは、“スーパーマント”の異名とは裏腹に、オープン戦から精彩を欠き、4月5日の開幕戦、阪神戦では9-0の圧勝にもかかわらず、マント1人だけが5打数無安打3三振と蚊帳の外。
渡辺恒雄オーナーも「1人だけトンマがいる」と不満をあらわにした。さらに翌6日の阪神戦も3打数無安打2三振に終わったばかりでなく、4回一死二塁、湯舟敏郎の投ゴロで走者の桧山進次郎を二、三塁間に挟んだにもかかわらず、ノータッチプレーでオールセーフと、攻守にわたって足を引っ張った。
4月12日の横浜戦で、開幕から22打席目でようやく初安打を記録も、その後も調子は上がらず、リリーフ陣強化のため、マリオ・ブリトーの獲得が決まると、同23日にスピード解雇された。10試合で27打数3安打1打点0本塁打では、「クスリとマントは逆から読んだらダメなんだよ」と渡辺オーナーに酷評されるのも、無理はない?
前出のマント同様、全然活躍できなかったのに、ファンに名前だけは記憶されているもう一人が、2005年に来日したダン・ミセリだ。
メジャー通算41勝35セーブを記録した最速98マイル(約158キロ)の剛腕は、入団会見で50セーブを目標に掲げながら、「常時150キロを超える」とアピールした自慢の速球が140キロそこそこしか出ず、開幕から2試合続けて救援に失敗。登板4試合で0勝2敗、防御率23.63という惨憺たる成績で、前出のマントより早い球団最速の4月19日に解雇された。
退団当日、家族連れで浅草観光に出かけたことから、ミセリをもじった“仲見世リ”の呼称が広まり、結果的に名を残した。
2021年、巨人に入団した外野手のエリック・テームズも、コロナの影響で来日が遅れ、デビュー戦となった4月27日のヤクルト戦で、守備中に右足アキレス腱を断裂。たった1試合2打席で日本を去った。だが、上には上がいる。1971年に大洋入りしたフリオ・リナレスは、たった1打席で見切りをつけられている。
「自信をなくした」と突然現役引退を発表
4番候補として迎えられながら、わずか20試合で「自信をなくして」退団したのが、1987年のシーズン開幕直前に大洋入りしたシクスト・レスカーノだ。
メジャー通算148本塁打の強打者は、4月19日のヤクルト戦、5番ライトでデビューすると、いきなり4打数3安打の猛打賞。三塁線をあっという間に抜いた来日初安打は、相手野手を「速過ぎるよ」と驚嘆させた。
その後も5月3日の阪神戦で来日1号、同9日の巨人戦で2本塁打を放つなど、打率.313、3本塁打、7打点と、ここまでは順調だったが、その後、22打席無安打とさっぱり打てなくなり、打率は.217まで下降した。
そして、同17日、「140キロの球が打てず、自信をなくした」と突然現役引退を発表し、退団帰国。5月5日にデビューしたヤクルトの新助っ人、ボブ・ホーナーが4試合で6本塁打と打ちまくり、“赤鬼旋風”を起こした直後に急失速したことから、“ホーナー・ショック”とも言われた。
1997年に近鉄入りしたメジャー通算39勝の右腕、ボブ・ミラッキも、もともと体重104キロの巨漢ながら、110キロ以上はありそうなウエートオーバーで来日。3月29日の練習試合で9失点KOされるなど、調整不足のまま開幕を2軍で迎えたが、6月に1軍昇格後も、ピリッとしない。
同27日の西武戦では初回に4連打で2点を失ったあと、ドミンゴ・マルティネスに3ランを浴びたが、「普通なら(走者なしになって)あそこで流れが切れると思うやろ」と続投させた佐々木恭介監督の温情も裏目に出て、1イニング10失点と大炎上。メジャーで二桁勝利2度の実績もどこへやら、登板6試合、0勝2敗、防御率7.30で、退団帰国している。
2004年に阪神入りしたマイク・キンケードは、オープン戦で打率4割をマークし、開幕時は3番を打ったが、開幕から7試合で6死球を受けるという“当たり屋”ぶりで、評判になった。
4月9日の中日戦では、マーチン・ガルバスからヘルメットの左こめかみ部分に通算6個目の死球を受け、激高してマウンドに向かいかけたところで、意識朦朧となり、バッタリ……。同21日の中日戦では、山本昌の内角低め直球が踏み出した右膝に当たったが、渡真利克則球審は「わざと当たった」として、ボールの判定を下した。
結局、出場26試合で12死球というトンデモ記録を残し、肝心のバットのほうは、打率.233、3本塁打、7打点と湿ったまま日本を去った。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)