コラム 2024.08.28. 11:30

ソフトボール・長﨑望未さん|「しんどかった」現役時代を超えて 次世代へ伝えるための発信を<前編>

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元ソフトボール日本代表・長﨑望未さん
 元ソフトボール日本代表の長﨑望未さんは、2020年限りで現役生活に終止符を打った。引退後はYouTube配信やJD.リーグ(Japan Diamond Softball League:日本女子ソフトボールリーグ)アンバサダー就任、ソフトボール教室開催、アパレルブランドの立ち上げ、コラム執筆、そして今年1月には『マルチ&ヴィクタススポーツジャパン合同会社』との業務委託契約など、マルチに活躍の場を広げている。彼女の潔さと好奇心はどこからくるのか。その源に迫った。

――― さまざまな分野でご活躍中ですが、現在はどの活動に最も重心を置かれているのでしょうか?

今年からは、『マルチ&ヴィクタス』での仕事が一番のメインになっています。基本的に週の半分ぐらいはオフィスにいて、残りの時間はソフトボール教室や他のイベント、メディア関係のお仕事をさせていただいているという感じです。

――― 形としては、“フリーランス”でのお仕事かと思います。そうした働き方を選んだ理由などはあるのですか?

私の仕事のスタンスとして、「やりたいこと、楽しそうなことを、やりたい時に、自分で選んで進んでいきたい」というのはずっと決めていて。なので、YouTubeも、自分がYouTuberになりたいからやっているというよりは、野球と比べてソフトボールのコンテンツが圧倒的に少ないと感じたから始めました。例えばソフトボールをやっていたり、「やってみたいな」と思っている小さい子どもや中学生が、高校や大学、実業団を選ぶ時に、どういう進路を選んだらいいのかなどもあまりわからないような状況なので、私のYouTubeを見ることで何か参考になったり、上手い選手のプレーを見た子が、少しでも「ソフトボールをやりたい」「続けたい」と思ってくれたらいいなということがきっかけでした。

 とはいえ、ソフトボールのコンテンツだけだと視聴数が伸びないので、プロ野球選手にコラボしてもらって、見てもらえる層を増やしたりもやってけたら楽しそうだなと思ってやっています。
 今回、『マルチ&ヴィクタス』に入ったのも、今は野球がメインのブランドなのですが、今後、ソフトボールの道具やバットにも進出していく予定だという話を聞いたのと、その時に、「女性で、ソフトボールにも野球にも繋がりがあるような人を探している」と言われたので、それも私の感覚的にも合いそうだし、楽しそうだなと思って、決めさせていただきました。





――― 今のお話をお聞きしていると、ソフトボールの振興への強い想いを感じました。現役選手の時から、引退したあとは普及などにも関わっていきたいという考えはあったのですか?

そうですね。私が小学校だった頃は、地区に4チームぐらいあったのですが、今は1チームだけになってしまいました。全国的にも、部活がなくなったりしているという背景があって、ソフトボール人口が激減していることは確かなんです。なので、普及も兼ねていろいろやっていかなければいけないというのは、間違いなく課題の1つだと思っています。

 私自身も、現役中から、誰かがメディアに出て発信をしないといけないなと思っていました。時代は変わっているとはいえ、やはり結局はテレビから得られる情報が最も多いと思うんですよね。マイナー競技でも、その競技のアスリートがテレビに出ていたら、その選手をきっかけに競技自体に関心を持って、興味を持って会場に足を運んでもらって、試合を見てもらうという流れができている。でも、ソフトボール界の人たちって、あまりメディアに出る人が少ないなと感じていて。じゃあ例えば、一般の人に「知っているソフトボール選手は?」と訊いたら、「上野由岐子さん」と答えると思うんですよね。でも、「じゃあ他に誰を知ってる?」と聞いたら、「え?誰だろう?」となるのが現状じゃないかと思います。トヨタレッドテリアーズ(トヨタ自動車女子ソフトボール部)でプレーしている時から、「どこかのタイミングで、出られるのであればメディアに出て、誰かが発信した方がいいんじゃないんですか」とは、人事の人にかけあったりはしていました。やっぱり、そういうのをたまたま見て、子供たちが「私もああいう風になりたい」とか、「ソフトボールで活躍してテレビに出たい」と思ってくれたらいいなというのは、現役の時から言っていました。なので、引退しても関われることは関わりたいなと思っています。


[写真]=ご本人より提供

――― そうした思いも抱きつつ、2010年限りで引退。決断の原因やきっかけとは?

2018年ぐらいに肩を壊してしまって、一年間ぐらいは投げても塁間も届かないほどの状態でした。原因不明の痛みに襲われて、どこの病院に行っても『インピンジメント症候群※』(※はっきりとした損傷を伴わずに肩の痛みを起こす疾患の一つ)と診断されたのですが、私の場合は肩も上がらないし、腕を振るだけでも痛いから走れないぐらいにひどくて……。2015年ごろから、ソフトボール界では2020年東京五輪に向けた『5年計画』という強化活動をやっていて、自分もその候補選手の一人として選んでもらっていたのですが、その2018年の故障で、もう選ばれるどうのこうののレベルじゃない状態だったんですよね。自分の中でも、肩を痛める前から、「2020年の五輪を最後に、自分が選ばれても選ばれなくても、何があっても辞めます」ということは、スタッフには伝えていたんです。なので、「オリンピック選手になりたかったなぁ」という思いはあったのですが、肩の状態が日常生活にも支障が出るほどの問題があったので、結局、五輪は2021年にはなりましたが、予定通り2020年で引退させてもらいました。

――― 「2020年」と決めていたのはなぜですか?

ソフトボールは、16年間五輪競技ではなかったので、そのタイミングで生まれた私は、そもそもオリンピックを目指してはいませんでした。それが、2020年に五輪種目として復活すると決まったので、「目指さなきゃいけないかな」と思って、「2020年まで」と自分で決めてやっていたという感じですね。




――― あらためて、10年間のプロソフトボール選手人生を振り返ると?

しんどかったですね(笑)所属していたトヨタレッドテリアーズは、毎年優勝を狙うチームだったので、自分も結果を出さなければいけない立場でしたし、親兄弟や家族よりもチームの人と過ごす時間が長くて、もう朝から晩までグラウンドにいて、帰ったら洗濯して寝るだけ、みたいな生活をずっと10年間していたので。優勝しないと報われないし、優勝できない年なんて、「もう終わったな」ぐらいの感じで生きていましたよ、あの10年間は。嬉しいことはありましたけど、しんどかったことの方が多かったです。

――― 長﨑さんは、入団一年目のシーズンでいきなり本塁打王、打点王、ベストナイン、新人賞を獲得。その華々しい活躍が、逆に、その後、周囲から求められる結果のハードルが上がってしまって、プレッシャーを背負ってしまったということもあったのでしょうか?

18歳でトヨタに入った時に四冠を獲ったのですが、自分の中では、「一年間かけてチームに慣れていきながら、その中で少しずつ代打とかで出られたらいいな」ぐらいに考えていました。それが、いろいろなことがうまく重なって活躍できて、トントン拍子で四冠を獲れた。でも正直、バッティングは好きでしたし、確かに結果として他の選手よりも打てていたのは事実なのですが、わずか18歳で、そこまで細かい指導も受けていない子が、20代後半や30代の選手と比べて、走塁や守備の球際など、細かな技術の面で長けているかと言われたら、そんなはずはないですよね。たまたまバッティングで良い面が出たけど、トータル的に100%じゃない選手が賞をもらうとなると、中には良い捉え方をしてくれる人もいるけど、やっぱりネガティブで受け取られることも少なくありませんでした。そういうことも含めて、一年目のオフから二年目のシーズンは挫折したというか、「もう辞めたいな」と思ってしまって。そんな状態でも、優勝を狙わなければいけないチームだったので、しんどいながらも「自分の結果よりもチームの優勝のために」。でも、「優勝するためには自分も活躍しないと優勝できないし」と。その葛藤をしながら10年間やっていましたね。

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取材=上岡真理江
写真=須田康暉
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