夏の甲子園を沸かせた“大社旋風”
第106回全国高校野球選手権大会で、最も大きな旋風を起こしたのが大社(島根)だった。
全国に15校しかない、第1回地方大会から出場を続ける皆勤校の一つで、今回は1992年以来32年ぶりの出場だった。
その伝統校が今春選抜準優勝の報徳学園(兵庫)との1回戦に勝利し、61年以来63年ぶりの初戦突破を果たして勢いづいた。
創成館(長崎)との2回戦では延長10回タイブレークの末に勝利して、107年ぶりの夏2勝目。早実(西東京)との3回戦では夏の甲子園史上初となる2試合連続の延長タイブレーク勝利を挙げて、93年ぶりの8強入りをかなえた。
快進撃の中心にはエース左腕の馬庭優太(3年)がいた。
3回戦まで3試合連続完投勝利で準々決勝に導いた。初戦で優勝候補の報徳学園相手に被安打7、1失点に抑えて実力を示すと、早実戦では延長11回149球を一人で投げ抜き、最後は自らがサヨナラ打を放って投打で主役を演じた。
試合中から味方の奮闘に涙を流し、声を張り上げながら好投を続ける姿は感動を呼び、次第に一般の観客からも大きな声援を受けるようになった。
「大社旋風」の中心にいた馬庭は、中学時代に他校から入学の勧誘を受ける有力選手だった。
その好左腕が92年夏以来甲子園出場から遠ざかる大社への進学を決断した出来事があった。
3学年上の姉・歩未さん(20)が同校野球部のマネジャーを務めていたのだ。
姉の3年夏は島根大会決勝で敗れて、あと一歩で甲子園に届かなかった。その一戦を現地観戦していた馬庭が姉に伝えた。
「俺が甲子園に連れて行くから」
こうして進学先の迷いも吹っ切れ、姉を甲子園に連れて行くために大社を選んだ。
ただし聖地にたどり着くまで順風満帆とはいかなかった。
下級生の頃は、甲子園出場を目標に掲げて仲間にもストイックさを求める馬庭ら主力組とその他の選手の間で意見が食い違うこともあった。
「今は甲子園とか、そんな高いところ目指してもだめやろ」と反発の声が挙がり、選手同士でぶつかったことも一度や二度ではない。
2年夏は準決勝で敗退して新チームが始動。そこから何度も選手間ミーティングを行って目標を共有した。
馬庭は指導者から「エースとしての自覚を持ちなさい。周りから認められるエースになるには、結果だけでなく普段の取り組みから見られているよ」と伝えられながら、仲間を思いやって投球することを覚えていった。
2年秋は中国大会に出場。選抜出場こそかなわなかったものの、着実に聖地出場へ前進していた。
「甲子園出場が目標では、あそこに立てない」
今年3月には選手全員で甲子園に来たことがある。
兵庫の強豪校である明石商、社との練習試合が降雨中止となったため、選抜大会の観戦に向かったのだ。
そこでは自分たちと同じく地元出身選手中心に戦う公立の阿南光(徳島)が健闘していた。その姿を目に焼き付け、「絶対に俺らもここに立とう」と誓い合った。
春の島根大会に3回戦で敗れると、「甲子園出場が目標では、あそこに立てない。甲子園8強に目標に変えよう」と誓い合った。
そして、結束力を高めたナインは夏の甲子園出場をかなえた。
報徳学園との初戦前、馬庭は姉から伝えられた。
「仲間を信じて自分を信じて、全力で楽しんでこい」
その言葉通り、仲間を信じて旋風を起こした。
早実との3回戦では、同点の7回に中堅手の藤原佑(3年)が勝ち越しの適時失策を犯すと、「まだ大丈夫。笑顔でやろうぜ」と声をかけ、馬庭自らサヨナラ打を放った。試合後、藤原は「みんながいなければ、立ち直れなかった」と感謝の涙を流した。
神村学園(鹿児島)との準々決勝で敗れると、馬庭は「辛いときもみんなが寄り添ってくれた。もっとみんなと試合がしたかった」と真っ先に仲間のことを思った。
大社旋風は、馬庭がいなければ起きなかった。
ただし、エース一人のチームではなかった。全員で支え合って生まれた快進撃だった。
文=河合洋介(スポーツニッポン・アマチュア野球担当)