弱冠二十歳のヒットメーカー
1994年9月20日。夜空に浮かぶ中秋の名月は、グリーンスタジアム神戸でたたずむ一人の青年にスポットライトを浴びせていた。
今からちょうど30年前、オリックスは本拠地・神戸にロッテを迎え入れ、何とかパ・リーグの優勝戦線に踏みとどまろうとしていた。
その年のパ・リーグは稀に見る大混戦。8月には、0.5ゲーム差以内に西武、オリックス、近鉄、ダイエーの4チームがひしめき合っていた。
しかし、9月中旬に西武が混戦を抜け出すと、10月2日に近鉄を破ってリーグ5連覇を達成。最終的にオリックスと近鉄が7.5ゲーム差の2位で並び、2チームとゲーム差なしの僅か6毛差でダイエーは4位に終わった。
前年オフに秋山幸二が抜けた西武が王者の貫禄を見せた年だった。しかし、この年のプロ野球界で最も輝いていた選手は間違いなく、弱冠二十歳のイチローだったことも疑いようのない事実である。
オリックスは前年の1993年まで5年連続でAクラスに入りながら、ことごとく西武に苦杯をなめていた。
前年オフに土井正三監督が退任。新たな指揮官には仰木彬監督が任命された。近鉄の監督時代から話題作りには事欠かなかった仰木監督は、手始めに野手2人の登録名変更を実行した。
一人は1989年のドラフト1位で社会人・熊谷組から入団した佐藤和弘改めパンチ佐藤。そしてもう一人が鈴木一朗改めイチローである。
1991年のドラフトでオリックスから指名を受けたイチローだが、その順位はなんと4位。二軍では好成績を残していたものの、プロ入り後の2年間で一軍に出場したのは83試合だった。
高卒1年目の92年は、打率.253とまずまずの数字を残していたイチローだが、2年目は打率.188と低迷。それでもその類まれなる才能を見抜いた仰木監督は、3年目のイチローを開幕スタメンに抜擢した。
改名コンビの“主役”パンチ佐藤はこの年、代打の切り札として開幕当初こそ結果を残していたが徐々に失速。結局23試合に出場したのち、この年限りで現役を退いた。
一方のイチローは開幕当初は2番を、その後は定位置の1番に固定されると、アーティストのごとく安打を量産。前年1割台だった打者とは思えぬ打撃センスを発揮し、6月には史上最速となる60試合目で100安打に到達。7月上旬時点で打率.400に達するなど、夜のスポーツニュースを連日連夜にぎわせた。
イチローの登場に加えて4球団による熾烈な優勝争いも後押しし、この年に限れば、プロ野球界の主役は間違いなくパ・リーグだった。
イチローは9月14日の日本ハム戦でシーズン192本目の安打を放ち、藤村富美男(阪神)の191安打を抜いて日本新記録を樹立。そしてその6日後、6回裏に放ったこの日の3本目の安打がプロ野球史上初となるシーズン200本目の安打だった。
その日の夜、テレビのニュース番組にゲスト出演したイチローは次の目標を聞かれたが、「1本でも多くヒットを打ちたい」と淡々と、謙虚に回答。結局、その記録を210安打まで伸ばして充実のシーズンを終えている。
イチローは翌年以降も、日本球界を代表する打者として頂点に君臨しつづけ、2000年まで7年連続首位打者の金字塔を達成。活躍の舞台をアメリカに移した01年にはア・リーグの首位打者にも輝いている。
さらにちょうど10年後の2004年には、メジャーリーグのシーズン歴代最多安打を更新。20年が経過しようとしている今もイチローの「262」に近づく者はいない。
ちなみに1994年のイチローを皮切りにシーズン200安打を達成した選手は、2015年に216安打を放った秋山翔吾(当時西武)を含めてのべ7人(青木宣親は2度達成)いるが、130試合制で成し遂げたのはイチローだけである。
文=八木遊(やぎ・ゆう)