10月24日にプロ野球ドラフト会議が開催され、各球団の1位指名選手が話題を集めている。近年では12球団全体の最下位指名から大躍進した選手も少なくない。平成以降、どん尻からのし上がった男たちを振り返ってみよう。
最下位指名から大躍進を遂げた元祖は、1991年のダイエーに10位(全体の92番目)・田畑一也だ。
社会人3年目に肘を痛めて一度は野球を断念したが、実家の「田畑建工」で大工として働きながら、趣味の草野球でノーヒットノーランを何度も記録するうち、再び野球への情熱が高まり、ドラフト直前にダイエーのテストを受験、見事合格をかち取った。
NPB初の現職の大工の指名で話題になった田畑は、ヤクルト移籍後の96年に12勝を挙げ、オールスター初出場。翌97年にも自己最多の15勝を記録し、“野村再生工場の最高傑作”と呼ばれた。
最下位から1番(首位打者)に大出世したのが、93年のロッテ7位(全体の64番目)・福浦和也だ。
習志野高時代は県下屈指の左腕。入団時に打者を勧められたが、「1年だけでも投手をやらせてください」と初めは投手にこだわった。だが、その後肩を痛め、山本功児2軍打撃コーチ(後に監督)のアドバイスで打者に転向したことが吉と出る。
97年に1軍定着をはたすと、01年に打率.346で初タイトルの首位打者を獲得。18年9月22日の西武戦で史上52人目の通算2000安打を達成するなど、26年の長きにわたって現役を続け、最下位指名から名球会入りした。
前出の田畑同様、移籍先で花開いたのが、2013年の楽天9位(全体の76番目)・今野龍太だ。
宮城県立の岩出山高時代は、部員不足で2年連続秋の県大会出場を辞退し、一時は退部も考えたほど。だが、「自分が辞めてから、あと1人で出られたのに……となったら後悔する」と思い直したことが、プロ入りへの道を切り拓く。
部員11人で臨んだ最後の夏の県大会初戦、今野は16奪三振でノーヒットノーランを達成。3回戦で聖和学園に2対5で敗れたが、毎回の12三振を奪い、最速146キロをマークしたことが、上岡良一スカウトの目に留まり、星野仙一監督の「面白いな。ええやないか」という鶴のひと声で獲得が決まった。
楽天では実働5年で登板15試合と出番に恵まれなかったが、自由契約を経てヤクルトにテスト入団すると、21年に自己最多の64試合にリリーフ登板し、7勝1敗28ホールド、防御率2.76で、チームの6年ぶりVと日本一に貢献。翌22年も51試合に登板し、連覇の一翼を担った。
専門学校からプロ入りという異色の経歴を持つのが、16年の楽天10位(全体の87番目)・西口直人だ。
大阪府立山本高卒業後、硬式野球部のある甲賀健康医療専門学校に進み、最速149キロをマークしたことがきっかけで、プロ入りの夢を実現した。
最初の2年間は故障もあり、1軍で1試合の登板にとどまったが、21年に中継ぎとして33試合に登板し、プロ初勝利を含む5勝2敗3ホールドと結果を出すと、翌22年にはリーグ最多の61試合に登板。4勝0敗30ホールド、防御率2.26を記録した。
21年の日本ハム9位(全体の77番目)・上川畑大悟は、日大時代に俊足巧打の1番打者として活躍。NTT東日本2年目の20年にドラフト候補に挙げられながら、指名漏れになると、社会人3年目は「この1年を必死にやってみよう」と“ラストチャンス”にすべてを賭けた。
そして、翌21年のドラフトでは、なかなか名前を呼ばれず、「あきらめかけていた」矢先、日本ハムが9位指名。全体の最下位指名ながら、球団の期待度は高く、新人で唯一の一桁背番号「4」を貰った。
1年目は5月31日の広島戦で4番に抜擢されるなど、規定打席不足ながら、打率.291の好成績で“神川畑”と呼ばれ、今季はオールスター初出場をはたした。
近年は独立リーグの選手も、指名順位が低くても入団拒否せず、必死でチャンスを掴もうと努力することから、最下位指名からの躍進組が目立つ。
17年のDeNA9位(全体の82番目)・山本祐大(BC滋賀)は、二塁への送球タイムが1秒8台前半という強肩が河原隆一スカウトの目に留まり、プロ入りの道が開けた。今季は自己最多の108試合に出場し、オールスターにファン投票で初選出されるなど、7年目で正捕手の座を掴んだ。
19年の西武8位(全体の74番目)・岸潤一郎は、明徳義塾時代に「投打二刀流」として春夏4度の甲子園に出場したが、拓大進学後に右肘のトミージョン手術を受け、大学を中退。一時は野球を断念するなど、紆余曲折を経て、18年に四国IL・徳島に入団すると、翌19年に3本塁打、25打点、35盗塁を記録してチームの年間総合優勝に貢献した。50メートル5秒8の俊足とパンチ力のある打撃を買われ、21年には自己最多の100試合に出場し、9本塁打を記録した。
20年の阪神8位(全体の74番目)・石井大智は、NPBで唯一の高等専門学校卒業選手だ。四国IL・高知入団後、130キロ台半ばだった速球が153キロまで伸び、駒田徳広監督も「(当初は)行けると思わなかった」NPB入りを実現。昨年は44試合に登板し、1勝1敗19ホールド。岡田阪神の日本一に貢献した。
今年のドラフトで下位指名された選手の中にも、“未来のスター”がいるかもしれない。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
最下位指名から大躍進を遂げた元祖は、1991年のダイエーに10位(全体の92番目)・田畑一也だ。
社会人3年目に肘を痛めて一度は野球を断念したが、実家の「田畑建工」で大工として働きながら、趣味の草野球でノーヒットノーランを何度も記録するうち、再び野球への情熱が高まり、ドラフト直前にダイエーのテストを受験、見事合格をかち取った。
NPB初の現職の大工の指名で話題になった田畑は、ヤクルト移籍後の96年に12勝を挙げ、オールスター初出場。翌97年にも自己最多の15勝を記録し、“野村再生工場の最高傑作”と呼ばれた。
最下位から1番(首位打者)に大出世したのが、93年のロッテ7位(全体の64番目)・福浦和也だ。
習志野高時代は県下屈指の左腕。入団時に打者を勧められたが、「1年だけでも投手をやらせてください」と初めは投手にこだわった。だが、その後肩を痛め、山本功児2軍打撃コーチ(後に監督)のアドバイスで打者に転向したことが吉と出る。
97年に1軍定着をはたすと、01年に打率.346で初タイトルの首位打者を獲得。18年9月22日の西武戦で史上52人目の通算2000安打を達成するなど、26年の長きにわたって現役を続け、最下位指名から名球会入りした。
高校時代の部員不足からプロで日本一を経験した“苦労人”
前出の田畑同様、移籍先で花開いたのが、2013年の楽天9位(全体の76番目)・今野龍太だ。
宮城県立の岩出山高時代は、部員不足で2年連続秋の県大会出場を辞退し、一時は退部も考えたほど。だが、「自分が辞めてから、あと1人で出られたのに……となったら後悔する」と思い直したことが、プロ入りへの道を切り拓く。
部員11人で臨んだ最後の夏の県大会初戦、今野は16奪三振でノーヒットノーランを達成。3回戦で聖和学園に2対5で敗れたが、毎回の12三振を奪い、最速146キロをマークしたことが、上岡良一スカウトの目に留まり、星野仙一監督の「面白いな。ええやないか」という鶴のひと声で獲得が決まった。
楽天では実働5年で登板15試合と出番に恵まれなかったが、自由契約を経てヤクルトにテスト入団すると、21年に自己最多の64試合にリリーフ登板し、7勝1敗28ホールド、防御率2.76で、チームの6年ぶりVと日本一に貢献。翌22年も51試合に登板し、連覇の一翼を担った。
専門学校からプロに進んだ“変わり種”
専門学校からプロ入りという異色の経歴を持つのが、16年の楽天10位(全体の87番目)・西口直人だ。
大阪府立山本高卒業後、硬式野球部のある甲賀健康医療専門学校に進み、最速149キロをマークしたことがきっかけで、プロ入りの夢を実現した。
最初の2年間は故障もあり、1軍で1試合の登板にとどまったが、21年に中継ぎとして33試合に登板し、プロ初勝利を含む5勝2敗3ホールドと結果を出すと、翌22年にはリーグ最多の61試合に登板。4勝0敗30ホールド、防御率2.26を記録した。
21年の日本ハム9位(全体の77番目)・上川畑大悟は、日大時代に俊足巧打の1番打者として活躍。NTT東日本2年目の20年にドラフト候補に挙げられながら、指名漏れになると、社会人3年目は「この1年を必死にやってみよう」と“ラストチャンス”にすべてを賭けた。
そして、翌21年のドラフトでは、なかなか名前を呼ばれず、「あきらめかけていた」矢先、日本ハムが9位指名。全体の最下位指名ながら、球団の期待度は高く、新人で唯一の一桁背番号「4」を貰った。
1年目は5月31日の広島戦で4番に抜擢されるなど、規定打席不足ながら、打率.291の好成績で“神川畑”と呼ばれ、今季はオールスター初出場をはたした。
近年は独立リーグの選手も、指名順位が低くても入団拒否せず、必死でチャンスを掴もうと努力することから、最下位指名からの躍進組が目立つ。
17年のDeNA9位(全体の82番目)・山本祐大(BC滋賀)は、二塁への送球タイムが1秒8台前半という強肩が河原隆一スカウトの目に留まり、プロ入りの道が開けた。今季は自己最多の108試合に出場し、オールスターにファン投票で初選出されるなど、7年目で正捕手の座を掴んだ。
19年の西武8位(全体の74番目)・岸潤一郎は、明徳義塾時代に「投打二刀流」として春夏4度の甲子園に出場したが、拓大進学後に右肘のトミージョン手術を受け、大学を中退。一時は野球を断念するなど、紆余曲折を経て、18年に四国IL・徳島に入団すると、翌19年に3本塁打、25打点、35盗塁を記録してチームの年間総合優勝に貢献した。50メートル5秒8の俊足とパンチ力のある打撃を買われ、21年には自己最多の100試合に出場し、9本塁打を記録した。
20年の阪神8位(全体の74番目)・石井大智は、NPBで唯一の高等専門学校卒業選手だ。四国IL・高知入団後、130キロ台半ばだった速球が153キロまで伸び、駒田徳広監督も「(当初は)行けると思わなかった」NPB入りを実現。昨年は44試合に登板し、1勝1敗19ホールド。岡田阪神の日本一に貢献した。
今年のドラフトで下位指名された選手の中にも、“未来のスター”がいるかもしれない。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)