西武・高橋光成が9月3日のオリックス戦で7回二死まで3失点と踏ん張りながら、負け投手になり、パ・リーグワーストの開幕から11連敗を記録した。エース級の投手でも、一度歯車が狂いだすと、修正が難しいことを痛感させられる。高橋以前に開幕から負け続けた投手を振り返ってみよう。
NPBにおける開幕からのシーズン連敗記録は、1956年の大洋・権藤正利の「13」が歴代トップだ。
プロ1年目に15勝、2年目に11勝と2年連続でチームの最多勝利を記録した権藤は、3年目の55年7月6日の国鉄戦でシーズン3勝目を挙げたのを最後に勝てなくなり、同9日の広島戦から8連敗でシーズンを終えた。
そして、翌56年も開幕3戦目、3月22日の中日戦で好投報われず、2-3とサヨナラ負けを喫すると、4月12日の阪神戦でも8回を1失点に抑えながら0-1で負け投手になるなど、打線の援護にも恵まれず、黒星街道を驀進。そして、9月19日の巨人戦も、拙守に足を引っ張られ、5回を自責点2ながら4失点で負け投手に。開幕から13連敗でシーズンを終えた。
翌57年も、権藤は開幕から7連敗となおも負の連鎖が続くが、7月7日の巨人戦で4安打完封勝利。3年ぶりの白星で長い呪縛から解き放たれた権藤は同年12勝を挙げたが、足掛け3年にわたる28連敗は、現在もNPBワースト記録だ。
高橋同様、開幕からシーズン11連敗を記録したのが、50年の国鉄・成田敬二(啓二)と60年の近鉄・大津守だ。
米子鉄道管理局から31歳で新生球団の国鉄に入団した成田は、2リーグ制がスタートした50年3月10日の開幕戦、大洋戦で、先発予定だった古谷法夫が開幕投手のプレッシャーに耐えきれず、試合当日の朝に失踪するアクシデントにより、急きょ代役で先発。
右サイドからの緩い球を有効に使い、平山菊二に2点タイムリーを許した6回以外は、ゼロに抑えて完投したが、打線の援護を得られず、0-2で負け投手になった。同年の国鉄は、NPBへの加盟が遅れ、他球団の余剰選手を獲得できなかったことから、戦力不足は明らかだった。
成田はその後も4月2日の大洋戦で、1点リードの8回に逆転され、6敗目を喫するなど、なかなか勝てず、5月11日の松竹戦も2-3でサヨナラ負けし、ついに11連敗。そんな苦闘の日々を経て、6月21日の大洋戦で7安打1失点完投勝利を挙げ、ようやく長いトンネルを抜け出した。同年は2勝13敗、防御率4.47を記録し、翌51年限りで引退した。
ちなみに成田のプロ初登板から11連敗もNPB記録で、2007年に松崎伸吾(楽天)も足掛け2年ながらデビューから11連敗を記録し、成田に並んでいる。
一方、大津は、西鉄時代の55年に21勝を挙げるなど、シーズン18勝以上を3度も記録した実力者。58年に近鉄移籍後も2年連続二桁勝利を挙げ、連敗記録を作った60年も、2年連続の開幕投手に選ばれていた。
だが、4月9日の開幕戦、東映戦で4回まで3-2とリードしながら、5回に西園寺昭夫に同点ソロ、6回に山本八郎に決勝3ランを被弾して負け投手になったのがケチのつきはじめ。その後も調子を取り戻せないまま、7月7日の西鉄戦も2回4失点KOで開幕から10連敗となった。
そして、8月5日の大毎戦、前日の試合で先発を告げられながら雨で中止となり、スライド登板となった大津は、報道陣から「連投だね」と冗談めかして言われると、「昨日はナイスピッチングだった。(今日も)速球がビシビシ決まって完封だよ」と快気炎を上げてマウンドへ。だが、1点リードの4回に一挙3失点で逆転され、11連敗……。
その後は右肩筋肉の痛みや腫れ物ができるなど、アクシデント続きで休養する羽目になり、0勝11敗、防御率6.59でシーズンを終えた。
翌61年6月8日の西鉄戦で2年ぶりの白星を手にした大津だったが、59年のシーズン終盤に3連敗、61年も黒星スタートだったことから、足掛け3年で通算15連敗を記録している。
「開幕から」という条件を外すと、シーズン連敗記録は、66年の阪急・梶本隆夫の「15」がワーストになる。
同年の梶本は、4月に開幕から2連勝と好スタートも、ここから勝利の女神にすっかり見放されてしまう。5月1日の南海戦でリリーフに失敗してシーズン初黒星を喫すると、5月だけで7敗を記録するなど、泥沼状態に。
そして、9月4日の西鉄戦で打線の援護なく0-2で敗戦投手になり、56年の権藤正利(大洋)、飯尾為男(高橋)と並ぶ史上最多タイのシーズン13連敗。さらに同19日の南海戦、同27日の東映戦でも負け投手になり、単独トップのシーズン15連敗となった。
梶本は翌67年4月11日の西鉄戦でも1失点完投ながら、0-1で敗れ、足掛け2年で16連敗を記録したが、同22日の西鉄戦で約1年ぶりの勝ち投手になり、ようやく悪い流れを断ち切った。連敗ストップ後はシーズン15勝を挙げ、悲願の球団初Vに貢献。やっぱり、白星は何よりの薬のようだ。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
NPBにおける開幕からのシーズン連敗記録は、1956年の大洋・権藤正利の「13」が歴代トップだ。
プロ1年目に15勝、2年目に11勝と2年連続でチームの最多勝利を記録した権藤は、3年目の55年7月6日の国鉄戦でシーズン3勝目を挙げたのを最後に勝てなくなり、同9日の広島戦から8連敗でシーズンを終えた。
そして、翌56年も開幕3戦目、3月22日の中日戦で好投報われず、2-3とサヨナラ負けを喫すると、4月12日の阪神戦でも8回を1失点に抑えながら0-1で負け投手になるなど、打線の援護にも恵まれず、黒星街道を驀進。そして、9月19日の巨人戦も、拙守に足を引っ張られ、5回を自責点2ながら4失点で負け投手に。開幕から13連敗でシーズンを終えた。
翌57年も、権藤は開幕から7連敗となおも負の連鎖が続くが、7月7日の巨人戦で4安打完封勝利。3年ぶりの白星で長い呪縛から解き放たれた権藤は同年12勝を挙げたが、足掛け3年にわたる28連敗は、現在もNPBワースト記録だ。
開幕11連敗を記録した国鉄と近鉄の投手
高橋同様、開幕からシーズン11連敗を記録したのが、50年の国鉄・成田敬二(啓二)と60年の近鉄・大津守だ。
米子鉄道管理局から31歳で新生球団の国鉄に入団した成田は、2リーグ制がスタートした50年3月10日の開幕戦、大洋戦で、先発予定だった古谷法夫が開幕投手のプレッシャーに耐えきれず、試合当日の朝に失踪するアクシデントにより、急きょ代役で先発。
右サイドからの緩い球を有効に使い、平山菊二に2点タイムリーを許した6回以外は、ゼロに抑えて完投したが、打線の援護を得られず、0-2で負け投手になった。同年の国鉄は、NPBへの加盟が遅れ、他球団の余剰選手を獲得できなかったことから、戦力不足は明らかだった。
成田はその後も4月2日の大洋戦で、1点リードの8回に逆転され、6敗目を喫するなど、なかなか勝てず、5月11日の松竹戦も2-3でサヨナラ負けし、ついに11連敗。そんな苦闘の日々を経て、6月21日の大洋戦で7安打1失点完投勝利を挙げ、ようやく長いトンネルを抜け出した。同年は2勝13敗、防御率4.47を記録し、翌51年限りで引退した。
ちなみに成田のプロ初登板から11連敗もNPB記録で、2007年に松崎伸吾(楽天)も足掛け2年ながらデビューから11連敗を記録し、成田に並んでいる。
一方、大津は、西鉄時代の55年に21勝を挙げるなど、シーズン18勝以上を3度も記録した実力者。58年に近鉄移籍後も2年連続二桁勝利を挙げ、連敗記録を作った60年も、2年連続の開幕投手に選ばれていた。
だが、4月9日の開幕戦、東映戦で4回まで3-2とリードしながら、5回に西園寺昭夫に同点ソロ、6回に山本八郎に決勝3ランを被弾して負け投手になったのがケチのつきはじめ。その後も調子を取り戻せないまま、7月7日の西鉄戦も2回4失点KOで開幕から10連敗となった。
そして、8月5日の大毎戦、前日の試合で先発を告げられながら雨で中止となり、スライド登板となった大津は、報道陣から「連投だね」と冗談めかして言われると、「昨日はナイスピッチングだった。(今日も)速球がビシビシ決まって完封だよ」と快気炎を上げてマウンドへ。だが、1点リードの4回に一挙3失点で逆転され、11連敗……。
その後は右肩筋肉の痛みや腫れ物ができるなど、アクシデント続きで休養する羽目になり、0勝11敗、防御率6.59でシーズンを終えた。
翌61年6月8日の西鉄戦で2年ぶりの白星を手にした大津だったが、59年のシーズン終盤に3連敗、61年も黒星スタートだったことから、足掛け3年で通算15連敗を記録している。
シーズン連敗記録は「15」
「開幕から」という条件を外すと、シーズン連敗記録は、66年の阪急・梶本隆夫の「15」がワーストになる。
同年の梶本は、4月に開幕から2連勝と好スタートも、ここから勝利の女神にすっかり見放されてしまう。5月1日の南海戦でリリーフに失敗してシーズン初黒星を喫すると、5月だけで7敗を記録するなど、泥沼状態に。
そして、9月4日の西鉄戦で打線の援護なく0-2で敗戦投手になり、56年の権藤正利(大洋)、飯尾為男(高橋)と並ぶ史上最多タイのシーズン13連敗。さらに同19日の南海戦、同27日の東映戦でも負け投手になり、単独トップのシーズン15連敗となった。
梶本は翌67年4月11日の西鉄戦でも1失点完投ながら、0-1で敗れ、足掛け2年で16連敗を記録したが、同22日の西鉄戦で約1年ぶりの勝ち投手になり、ようやく悪い流れを断ち切った。連敗ストップ後はシーズン15勝を挙げ、悲願の球団初Vに貢献。やっぱり、白星は何よりの薬のようだ。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)