最下位脱出をはかるチームからセ・リーグ10勝一番乗り!
後半戦に入っても、ヤクルトと5~6位争いを続けるDeNA。そんな中で気を吐き、直接対決で5勝を挙げているのが、2年目を迎える先発右腕・井納翔一だ。
プロ2年目といっても、社会人を4年経験しての入団。28歳でブレイクした遅咲きのエースが歩んできた道を辿ってみよう。
甲子園はスタンドで応援 大学4年でようやく開花
井納翔一は、1986年5月1日生まれ、東京都出身。中学時代に所属していたのは、東京都江東区の軟式クラブ「大島クラブ」の中学部。軟式野球がとても盛んな地域で、中学校の軟式野球部とともに軟式クラブも熱心に活動している。現在のチームメートである大田阿斗里は隣の江戸川区出身で、江戸川区立南葛西第二中学校の軟式野球部と、軟式クラブ「仲町ビッグフィガーズ」の中学部に所属。「部活と軟式クラブのかけもちは、地元では普通です」と話している。
中学校を卒業すると、千葉県の木更津総合高校へ。チームは2年夏に甲子園出場を果たすもベンチ入りできず、アルプススタンドで応援していたという。3年夏は県大会準決勝で、松本啓二朗(現・DeNA)がエースで4番の千葉経済大学付属高校に敗退。その松本は、甲子園でダルビッシュ有(現・レンジャーズ)がエースの東北高校(宮城)と対戦。延長戦となった死闘を制してベスト4入りを果たしている。そう、井納は「ダルビッシュ世代」なのだ。
卒業後は、群馬県にある上武大学へ。地方大学と侮るなかれ、投手陣は1学年上に加賀繁(現・DeNA)、石川俊介(元・阪神)、同学年に豊田拓矢(現・西武)。1学年下には主戦捕手の松井雅人(現・中日)、内野の要の安達了一(現・オリックス)と、プロ入りを果たす選手に囲まれていた。一流の野球を叩き込む谷口英規監督の下、チームは2~4年時に大学選手権出場。が、井納がベンチ入りしたのは2008年、4年時のみで、チームは準々決勝で明治大学に敗れた。なお、この試合の明治大は、野村祐輔(現・広島)→岩田慎司(現・中日)という豪華完封リレーだった。
大学4年秋は、ドラフト候補として名前が挙がった。当時の体型は188センチ78キロ。身長は変わらないが、現在より10キロ以上も細い。専門誌では、「145キロ前後の速球と30キロ差のカーブとの緩急を、腕を振ってつけられる大型本格派」「大型でもボディーバランスに優れ、140キロ台と複数の変化球を低めに集める能力は魅力」、注目ポイントとして「テークバックから腕の前振りにかけてのバランスもすばらしく、セットからも145キロ前後を連発。ピンチでの動揺も少ない」と、写真入りで紹介されている。
クビを覚悟した社会人時代 運命を変えたスプリット!
しかしながら、ドラフト指名されずNTT東日本に入社。そこでは、本人が「クビを覚悟した」と振り返るほど活躍の記録が残っていない。1年目の2009年、都市対抗野球の新人賞にあたる「若獅子賞」を受賞したのは、同学年の須田幸太(Honda/現・DeNA)と榎田大樹(東京ガス/現・阪神)。さらに翌2010年、日本選手権でチームはベスト4入りを果たすも、活躍したのは1年下の小石博孝(現・西武)だった。
3年目も思うような成績を残せず、背水の陣となった4年目。スプリットの使い方をマスターしたことで、すべてが変わったという。「フォークで三振を奪う」から「スプリットでゴロを打たせて取る」へ。都市対抗という大舞台で先発を任されるまでになり、ベスト4進出に貢献。秋のドラフト3位でDeNAの指名を受け、ついにプロ入りを果たしたのだった。
即戦力と期待されたプロ1年目は、開幕ローテーション入りを果たすも5勝7敗。大活躍とはならなかったが、オフに結成された日本代表「小久保ジャパン」に選ばれた。2年目の今年は、開幕2戦目の先発として6回を投げて1勝目。初回、打者走者と接触するアクシデントをはねのけてのピッチングだった
そこから順調に勝ち星を重ね、ついに10勝(7月28現在)。当然、「エース」という言葉が出てくるが、本人は「嬉しいですけど、まだ1年間しっかりした成績を残していない」と浮かれない。中畑清監督も「すぐその気になるから(エースと呼ばない)」と厳しいが、もともと遅咲きのピッチャーである。芽が出なくても花が咲かなくても、ひたすら野球をやってきた。そんな井納なりの歩みをもって、今年の活躍が来年、再来年、さらにその先へと続いていくことを期待したい。
(写真提供=横浜DeNAベイスターズ)
文=平田美穂(ひらた・みほ)