中学時代は走り込みがキツかった。所属した硬式クラブ「知多ボーイズ」では、「プレーで細かく指示されることはなく、のびのびとできました」(石川)というが、ランメニューは地獄だった。それをこなしたことで、下半身は確実に太くなった。
「知多ボーイズではほんとによく走りました。近くに新舞子の砂浜があり、冬は朝7時にそこへ行って午前中は走ってばかり。まず最初に砂浜の端から端まで10往復、1時間で9キロほど走ったと思います。波打ち際は地面が固くて砂浜の中では走りやすいので、最初はみんなそこを選んで走るんですが、だんだんと荒れてくるから結局走りづらい(笑)。そこから休憩を挟んで20分間のダッシュとか。全然足が進まなかったです」
小学生時代と同様、中学でも選抜チームを経験した。「NOMOジャパン」に選ばれたのだ。「全国から選手が集まってきていて、レベルの高さを感じました。ただその中で肩も一番強かったし、打球も一番飛ばすほうだったので、力では負けていないな、と。天狗になったわけではありませんが、自信にはなりました」(石川)。
中学・高校関係者の間では全国的な評判になっていた。
高校は、両親と同様に東邦へ進んだ。入学直後からベンチに入るなど順風満帆に見えたが、その裏で挫折も味わった。当初はレベルの差に苦しみ、両足のケガも追い打ちをかけた。1年生の夏前のことだ。
「変化球のキレ、ストレートの質が全然違って、ついていけなかったです。自分ぐらいのレベルの選手はそこらじゅうにいる。焦りというか……。ケガも多かったです。足を痛めた影響もあり、練習試合で打てず、内容も悪すぎる。声を出さなかったり、凡打で一塁まで走らなかったりして、監督にも厳しく言われました」
奮起を誓ったのは、夏の大会の初戦後、自校のグラウンドへ帰るバスの中だった。
「試合が終わり、主力メンバーは試合会場でそのまま解散。僕は少ししか試合に出ていないので、バスでグラウンドへ戻ってくるときに、なにもかもうまくいかなくて『無理だ』と心が折れそうになりました。いるじゃないですか、つぶれていく選手。自分もそうなるのかなと思ったことは正直ありました。ただ同時に、『このままじゃいけない、やらないといけない』と、自分の中で気持ちを持ち直しました」
石川ほどの逸材でも感じた苦悩。そこで投げ出さなかったことが、今につながっている。
現在の目標像は、東邦の3年先輩にあたる藤嶋健人(中日)だ。「藤嶋さんみたいに、『こいつがいたから勝てた』と言われるような存在になりたい」(石川)。今秋からは投手を務め、主将を担う点も藤嶋と同じだ。出場が当確とされる来春のセンバツ甲子園で、さらに成長した姿を見せてくれそうだ。(取材・写真:尾関雄一朗)