中等学校野球大会によって全国に普及した野球
中等学校野球大会ができた時にはすでに、野球は人気スポーツではあった。東京六大学野球が人気を博していたのだ。
しかし、その人気は首都圏と関西圏などにとどまっていた。また、野球は用具やグラウンドなどの費用が掛かるため、競技人口は少なく、エリートのスポーツだった。
中等学校野球大会の開催によって、野球は全国に普及した。競技人口は爆発的に増加した。中等学校(師範学校、実業学校含む)への進学率は、同世代の18%程度であり、富裕層、エリート層が進学する学校だったが、それでもどの町でも野球をする青年の姿が見られるようになった。
また、朝日新聞、毎日新聞の「野球事業」の成功を見て、地方新聞社が県単位、地方単位の野球大会を次々と設立。全国で1年中、何らかの野球大会が開催されるようになった。
また地方新聞は、中等学校の下の高等小学校の大会も行うようになる。大正期に入り、軟式ボールが開発されたこともあり、10代前半の野球大会も盛んになった。
これらの野球大会は、すべて「甲子園」のスタイルをまねたものだった。こうした大会が全国で行われたことで、野球は急速に広まった。
高校野球の指導者には大学を卒業した元野球選手が就いた。現役の大学野球の選手たちも、帰省のたびに母校の野球部を訪れ、後輩たちを指導した。このため中等学校野球は当時の大学野球のスタイルを踏襲するようになった。ユニフォームも東京六大学のユニフォームと同じデザインのものが多く用いられた
今に至る「日本野球」は、中等学校野球の発展に伴ってこういう形で全国に普及していったのだ。(広尾晃)