歓迎の声
「藤田~、お帰り~」。交流戦で横浜スタジアムに帰ってきた藤田一也に、大勢のファンから声がかかる。横浜の地を離れることになったのは2012年のシーズン中。いくら年月が経っても、ベイスターズファンの脳裏には“23番”の雄姿が焼きついている。
「シーレックスのユニフォームを持ってきてくれたファンもいましたよ」と、屈託のない笑顔を見せる藤田は、どこか楽しそうだ。
藤田が横浜への入団を決めたのは2004年、暗黒時代真っ只中のベイスターズに「入団したい」と公言し、やってきた。その存在に、少なくとも私は特別な思いを抱いていた。
ベイスターズへの思い
近畿大学の安打製造機といわれ、突出した守備力を誇った藤田の気持ちをベイスターズに引き寄せたのは、当時の近畿担当スカウト・宮本好宣氏の存在だ。「大学3年からずっと宮本さんが見てくれていた。雨の日も台風の時でさえ」と当時を振り返る。
スカウトの視線を感じることで「隙は見せられない」と、自然とプレーの精度も上がった。それだけ気にかけてくれていたスカウトの熱意が、藤田の男気に火を付け、他球団の誘いを断り、「ベイスターズ以外なら社会人に」と決意させる。
そんな横浜愛を持って入団した藤田は、すぐに華麗な守備でファンを魅了。いつしか“ハマの牛若丸”という異名をつけられ、ファンから愛された。しかし別れは突然やってくる。2012年にトレードで楽天への移籍が決まると、本人のみならず、ファンもチームメイトも涙した。
その後の藤田の活躍は目覚ましく、今さら振り返るまでもないだろう。2013年には楽天の日本一に貢献し、今ではすっかり、“杜の牛若丸”として東北のファンを唸らせている。
無駄なことなんてない
久々の横浜スタジアムに、藤田は「2年に1回だからモチベーションは上がる」と目を細め、スタメン出場の機会が減ってきた現状にも「途中からの出場などは、横浜での経験が生きている。決して無駄なことなんてないんです」、「横浜での7年半があるから、いまの自分がある」と、感謝の思いを口にする。
そんな藤田の“人間力”にベイスターズの選手も惹かれるのだろう。かつて共にプレーした筒香嘉智が挨拶に訪れ、横浜と楽天で指導を受けた田代富雄コーチには、「歳なんで無理するなよ」、「でも、もうそろそろか?」と揶揄されたと笑う。その姿は、久しぶりの“故郷”を楽しんでいるようだった。
藤田はベイスターズファンに対して、「チームは変わったけど、良いプレーを見せられるように頑張りたい。僕が横浜の選手だったことを知らない新しいファンにも、活躍することで覚えてもらえたら」と語り、そのためにも「1年でも長く選手としてやりたい。そしてもう一度優勝したい」と、6年ぶりのリーグ制覇を思い描く。
選手寿命が延びた昨今、36歳という年齢は決して老け込むような歳ではない。今年5月に1000本安打を達成したとき、「まだまだ若いと思っていますので、これからも1本1本積み重ねていきたい」と藤田自身も語っていたが、そういった記録も通過点の1つに過ぎない。
新たな波が次々と押し寄せてくるなか、横浜時代の背番号「23」という数字が刺繍されたグラブをはめ、グラウンドを駆け回る牛若丸の姿を、まだまだ追いかけていたい。
取材・文=萩原孝弘(はぎわら・たかひろ)