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投手に付きまとう“故障”という問題 不屈のエース・川崎憲次郎さんはいかにして困難を乗り越えたのか【前編】

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川崎憲次郎さん [写真=兼子愼一郎]

川崎憲次郎さんインタビュー・前編


 年号が変わった2019年。“令和最初”の夏、日本の夏の風物詩である甲子園を制したのは、大阪代表の履正社高校だった。

 夏の甲子園も昨年が第100回の記念大会。今年は年号も変わり、大会も第101回目ということで、「次の100年に向けて~」といった話題も多く挙がった。そのなかで大きな注目を集め、また議論を呼んだのが『投手の運用』について、だ――。


 岩手・大船渡高のエースで、今年の高校生のなかでもNo.1の注目を集めた佐々木朗希が地方大会の決勝戦で登板しなかったことをキッカケに、これまでもしばしば議論の的に挙がっていた投手の「球数制限」や、地方大会の「日程問題」などが一気に噴出。アマチュア球界に精通したライターや評論家はもちろんのこと、現役選手を巻き込むまでの大論争に発展した。

 切っても切り離せない“投手と故障”の問題――。今回はそんな年々注目度が高まっている課題をテーマに、肘や肩の故障に悩まされながらもヤクルトのエースとして活躍した川崎憲次郎さんへインタビューを敢行。自身のキャリアを振り返っていただきながら、故障との戦い方・付き合い方について伺った。


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取材=尾崎直也
撮影=兼子愼一郎
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肘の故障で味わった悔しさをバネに…




【川崎憲次郎・年度別成績①】
[1989] 23試(98.1回) 4勝4敗1セーブ 防3.94
[1990] 29試(202.1回) 12勝13敗 防4.05
[1991] 28試(191.2回) 14勝9敗1セーブ 防2.91
[1992] 一軍登板なし


―― 高卒1年目からデビューを果たし、順調に勝ち星を伸ばしていった矢先に肘の故障。1992年シーズンは全休となりました。その時のことを教えてください。


キッカケというと、1992年の春のキャンプ。
当時のヤクルトはユマ(アメリカ・アリゾナ州)でキャンプをやっていたんだけど、
ノック中にボールを踏んで足首を捻挫した。


足が痛くてもボールは投げれるから、そのまま調整していくうちに、徐々に…。
開幕まで時間がないということもあるし、無理しちゃってたんだろうね。
自分では大丈夫だろうと思ってやっていたけど、身体には負担がかかっていた。
下半身壊しちゃうと、肘・肩に来るよと。ここで気づいたね。


例えばの話、マーくん(田中将大)とかは得意だったけど、
ある程度7~8割の力で抑えていって、いざピンチになるとギアを上げるスタイルね。
ピンチになって初めて10の出力をする。
それができたら無理することもないんだけど、そんな投手は一握り。
自分にはそこまでの馬力がなかったし、常に全力でないと投げられなかった。
そんなこともあって、肘をやっちゃった。




―― 早期のデビューに2年目・3年目はシーズン15完投。てっきり、“投げすぎ”というところなのかと思っていました。


最近こそ「球数制限」とかっていう話も出てきているけど、
僕らの高校時代は先発完投・連投が当たり前。
自分でも投げたかったし、投げることが当たり前だと思っていた。
だからプロに入ってからもそれは変わらず。
むしろ連投はないし、週に一度130球・140球投げることは全然平気だった。






【川崎憲次郎・年度別成績②】
[1993] 27試(139.2回) 10勝9敗 防3.48
☆カムバック賞
☆日本シリーズMVP



―― それでも、シーズン全休を経て、1993年に華々しく復活。カムバック賞にも輝きました。


一番の原動力は「悔しさ」。
1年目からコンスタントに勝ってきたのに、
1992年の大舞台に参加できなかったことが何より悔しかった。(※ヤクルトは14年ぶりにリーグ制覇)


初めての日本シリーズはスタンドから見てたんですよ。
もうそれは覚えていないよね。とにかく悔しかった。
「あんなに頑張ってきたのに、何でここにいるんだろう」
「なんでグラウンドにいないんだろう」
ただただ、その想いだった。


それがあっての1993年ですよね。
もちろん不安もあったけど、2ケタ勝つことができたし、チームも連覇できた。
自分のことより、スタンドから眺めていた日本シリーズに行けたのが嬉しかった。
監督からも4戦目に指名してもらえて、そこで「よっしゃ」と。




―― 日本シリーズでは第4戦と第7戦で先発していずれも勝利。日本シリーズMVPも受賞しています。


前年の悔しさ、あとはマウンドに立てる嬉しさ。
なんと言っていいか分からないけど、その2つが複雑に入り混じった心境だったのは覚えてる。
あまり自分の良かったことって覚えていないんだけど、93年の日本シリーズはめちゃめちゃ調子が良かった。
投手って悔しい記憶の方が強く残るものだと思っているけど、それだけはしっかりと覚えているね。


実は、このシリーズ中は2週間くらいずっと熱が下がらない状態で。
ずっと37~38度くらいの中で投げていた。
まぁでも、そんなの関係ないよね(笑)
熱があったって投げられれば良い。肘も痛くないわけではなかったけど投げられた。
とにかくあの場に立ちたかったという想いもあったから、もう無心だった。
ぶっ倒れたらそれまでだ、って。




―― しかし、よく投げていられましたね…!


熱はあったんだけど、体調が悪いということではなくて。
マウンドに立てば肩・肘は軽かったし、身体も軽かった。
投げる球全部ストライク入っちゃうからテンポも良くて、
相手も面食らったのか手が出せないで見てくれる。
向こうも疑問、投げてるおれも疑問、みたいな(笑)


そういえば当時、関根潤三さんがフジテレビの中継の解説をしていて、
後日録画したビデオを見てみたら、ずっと「おかしい…」って言ってた。
「こんなにストライク取れる川崎は見たことがない」って(笑)



それで、日本シリーズが終わればオフになるので、戦いが終わったらもうみんなでパーティー。
好きなモノ食べて、お酒も飲んで。わーわーみんなで騒いでたら、次の日には熱が下がってた(笑)
知恵熱みたいなことだったのか、本当に不思議だったけど、よく覚えてるなぁ。




モデルチェンジを受け入れたキッカケ



【川崎憲次郎・年度別成績③】
[1994] 20試(114.2回) 6勝9敗 防4.79
[1995] 7試(29.2回) 3勝0敗 防1.82
[1996] 5試(9.1回) 0勝0敗 防3.86
[1997] 22試(116.0回) 7勝5敗 防4.19
[1998] 29試(204.1回) 17勝10敗 防3.04
☆最多勝
☆沢村賞


―― その後は成績を落とすシーズンが続きましたが、1997年にまた持ち直し、1998年にはキャリアハイの17勝を挙げて最多勝を獲得。沢村賞にも輝きました。復活の裏には“投球スタイルの変化”があったとよく言われていますが…?


登板が減っていた時期、ノムさん(野村克也/当時の監督)から「シュート投げろ」って言われていて。
…当時は無視していたんだけど(笑)
97年あたりからシュートを投げるようにしてみたのが、98年に身を結んだという感じだった。
シュートって投げ始めてもあまり気づかれない球種で。
大きな変化があるわけでもなく、目立つボールでもない。
それがよかったのかな。


ちょうど成績が落ちていた時、悩みだったのが球速はそこまで落ちていなかったのに、
自分で完ぺきだと思ったまっすぐがファウルになったり、打ち返されるようになった。
投手ってリリースの瞬間にボールの良し悪しがだいたい分かるもので、
だいたいどこに行くか、これは決まった、とかね。
その手ごたえある球で空振りが取れなくなってしまって、
「なんでかな?」という疑問のなか、そういえば「シュート」って言ってたなと。
ふと思い出して、やってみるか、と。




―― 監督からのアドバイスを無視していたというのは…?


僕自身、ストレートで空振りを取ることに生きがいを感じていた、というのが一番。
ずっとそこにこだわって投げてきたのでね。
シュートって逆に1球で決める球。三振を取る球でなく、打たせて取る球だから。
あと、故障が多いっていう噂もあったよね。当時。
昔から「シュート投げすぎると肘・肩こわすぞ」と。
そんなこともあって、なかなか踏み切れなかった。


でも、まぁそんなことも言っていられないなと。
97年途中くらいから投げていて、98年のオープン戦あたりからモノになり始めた。
シーズンに入ったら、おもしろいように内野ゴロが取れたんだよね。
もちろん、三振は減ったんだけど。
最初はやっぱり楽しくはなかった。
でも、徐々に快感を覚えるようになっていって。
打者のバットを折られたときの顔を見るのがすごい好きになった(笑)




―― やってみて、新たなやりがいを見つけるわけですね。


何かを捨てないと、良いものって入ってこないんだなと思った。
変わることって勇気が必要じゃないですか。何事も。
やったことがないことをやるって、誰もが怖い。
それでも、やってみようと取り組んでいって、
三振取ることが喜びだったのが、新しい楽しみを見つけた。
そこでうまく切り替えられたのが、98年の成績に繋がったと思う。


野球選手に限らず、どの世界も一緒だなと今では思いますね。
変化を恐れていたら何もできない。
変化を恐れずにやってみれば、きっとなにか新しいものが掴める。
その逆で、失敗の典型例が昔を追い求めることかなと。
不調とか、年齢とか、何かのせいにして変化を拒んだらもう泥沼。
身体は確実に衰えていくわけで、少しずつなのか、急なのかは分からないけど。
だって、僕も一応150キロ近いまっすぐ投げてたんですよ(笑)
でも、それに固執していたら98年の復活はなかった。これは確実。
昔はこうだったと追い求めて努力しても、昔には戻れないんだから。
だったら新しいことをやってみよう、と。



まぁ、それがたまたまハマったから言えるのかもしれないけどね。
新境地を見つけるまでのスピードもそれぞれだろうし、
長く苦しい戦いになってしまうこともあるんだろうけど、
常に新しいことに興味を持って挑戦していくこと。
これが困難から這い上がるための、最大の近道だと僕は思う。
それが、ケガから学べたことかな。



【後編】投手に付きまとう“故障”という問題…不屈のエース・川崎憲次郎さんはいかにして困難を乗り越えたのか


川崎憲次郎さんがMVに出演中!


おとぼとる『ReSTART』


▼ おとぼとる・プロフィール
EXILE presents VOCAL BATTLE AUDITION4にて、3万人中15人のファイナリストに選出され、
他アーティストへの楽曲提供も手がける本格派シンガーソングライター田中龍志と、
恋んトス1stシーズンレギュラーでもあり、
いつでも明るく元気で人の心を惹きつける下松翔からなるボーカルグループ。
群馬テレビ"2019高校野球中継"、"高校野球ハイライト"の主題歌も担当。
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