川崎憲次郎さんインタビュー・後編
年号が変わった2019年。“令和最初”の夏、日本の夏の風物詩である甲子園を制したのは、大阪代表の履正社高校だった。
夏の甲子園も昨年が第100回の記念大会。今年は年号も変わり、大会も第101回目ということで、「次の100年に向けて~」といった話題も多く挙がった。そのなかで大きな注目を集め、また議論を呼んだのが『投手の運用』について、だ――。
岩手・大船渡高のエースで、今年の高校生のなかでもNo.1の注目を集めた佐々木朗希が地方大会の決勝戦で登板しなかったことをキッカケに、これまでもしばしば議論の的に挙がっていた投手の「球数制限」や、地方大会の「日程問題」などが一気に噴出。アマチュア球界に精通したライターや評論家はもちろんのこと、現役選手を巻き込むまでの大論争に発展した。
切っても切り離せない“投手と故障”の問題――。今回はそんな年々注目度が高まっている課題をテーマに、肘や肩の故障に悩まされながらもヤクルトのエースとして活躍した川崎憲次郎さんへインタビューを敢行。前編に引き続き、自身のキャリアを振り返っていただきながら、故障との戦い方・付き合い方について伺った。
⇒ ヤクルト時代の肘の故障と復活…【前編】はコチラ
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取材=尾崎直也
撮影=兼子愼一郎
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一人のファンからの声援に救われた
【川崎憲次郎・年度別成績④】
[1999] 24試(166.0回) 7勝11敗 防3.85
[2000] 20試(137.0回) 8勝10敗 防3.55
[2001] 一軍登板なし
[2002] 一軍登板なし
[2003] 一軍登板なし
―― 肘の故障で全休した後でのシュート習得。不安や弊害は?
弊害はなかったかな、と思うけどね。
全然投げれていたし、肘は手術もしたから気にならなかった。
意外と肘は大丈夫で、肘で辞めた選手ってほとんどいないし。
ただ、肩はね…。肩に来たらきつい。
特に30歳超えてからの肩はやばかった。
―― 2000年にFA権を取得して、中日へと移籍。そのタイミングで肩を故障してしまいます。
移籍して2年間は本当に全く投げられなかった。
2001年春、入りたてのオープン戦でやってしまった。
もう本番前ですよ、開幕目前にね。
肩も経験はあったから2~3カ月で戻れるだろうとその時は思ったけど、
もう本当にうんともすんとも。まったく投げられなかった。
―― あほみたいな質問で恐縮ですが、やっぱり痛いんですか?
めちゃくちゃ痛いよ!(笑)
あれはやった人にしか分からないと思う。
肩が1回ポンって外れて、そこからなんとなく入ったみたいな…?
いや、どんな感じだ?(笑)
なんて言ったらいいのか分からないけど、もう自分のものじゃない感じ。
とにかく痛くて、投げるたびに深呼吸しないとやっていられない。
だからなんとか投げられるようになってからも、
投げてボールを受け取ってはすぐにバックスクリーンの方に振り返って深呼吸してた。
―― 丸3年一軍登板なしを経て、4年目での復活。治ったというよりは、付き合い方が分かったという感じで?
まぁ復活…はできていないんだけどね。
身体がようやく適応したというか、
もちろん休んだ分すこし良くなったのもあるのかもしれないけど、
痛いなりにボールは投げられるようになった。
痛い中でどう投げればいいかが分かったのかな。
ただ、やっぱり痛いんで投げる時は上から下から痛み止め必須。
それも、登板の2日くらい前から準備する(笑)
とにかくしんどかったけど、やっぱり移籍してきて責任もあるし、
自分ももちろん一軍で投げたかった。
このままじゃ終われないという想いだけ。
それが消えることはなかったね。
移籍して3年目、二軍戦でようやく投げられるくらいになって。
ナゴヤ球場での試合、もうそりゃブーイングの嵐でした。
ヤジも言われるのはしょうがない。仕事してないから。
でも、やっぱり悔しいよね。
こうなりたくてなったわけじゃないから。俺だって投げたかったもん(笑)
ただ、身体は言うことを聞かなくて、ね。
―― それでも、投げ出すことはしなかった。
何回も投げ出してやろうかなとは思った。本当に何回も。
でも、そんな時に、ナゴヤ球場のブルペンで投げていたら一人の男の人が寄ってきて
「ナゴヤドームで待ってるからな!」って。
その瞬間にハッとさせられたというか、
待ってくれてる人もいるんだな、とようやく思えて。
じゃあ一人でもそういうファンがいてくれるなら、
「その人のために投げよう」と思った。
絶対に逃げたらダメだなと。戦っていかなきゃと思った。
本当にね、たった一人の声でもやる気が湧いてくるんですよ。
誰にも言えなかった「開幕戦登板」
【川崎憲次郎・年度別成績⑤】
[2004] 3試(2.1回) 0勝1敗 防34.71
―― そして復帰戦、中日移籍後初登板が2004年の開幕戦となりました。
それも“運”なんですよね。
落合(博満)監督が就任されて、年明けすぐの1月2日か3日に急に電話がかかってきた。
話をしたことはあったけど、監督になるとなってからは会ってもいなかったし、
「新年のあいさつ」かな、と(笑)
マメな方だなとと思っていたら、
「開幕投手、お前で行くからな」って。
「……え?」ですよね。
でも、気づいたら「わかりました。やります」って言っていた(笑)
別に断る理由はなかったし、これを機にもう一回復活できるかもなと思った。
3年間全く投げてなかったなかで、大きなモチベーションになった。
結果的にはダメだったんだけど、今思うとやっぱり落合さんはすごい。
移籍して3年間まったく投げてなかった奴を、
就任初年度の初戦に持ってくるなんてふつうに考えたらありえないこと。
あのマウンドに立たせてもらったのは本当にありがたかった。
―― 電話以外に声をかけられたことはなかったんですか?
開幕戦まではほぼなかったかな。
覚えているのは開幕戦で打たれて、交代の時にマウンドに来てくれて、
「いい球行ってるじゃねえか」って言ってくれた。
それで、2度目の登板でも打たれたけど、またマウンドまで来てくれて、
「もう一回チャンスやる」って。
結局、その“もう一回”が10月の引退試合だった。
年明けすぐの電話からはじまって開幕戦、そして10月まで。
思えば最後の1年は落合さんの言葉に支えられていたな、と。
あ、あと、1月の電話で
「(開幕投手は)俺とお前しか知らないからな」って言っていた。
たぶん、他にも知っている人はいたんでしょうけど、僕にはそう伝えた。
そして、「母ちゃん(奥さん)には言ってもいいぞ」と(笑)
それは良いんだ、と思いながら、
僕の中でこのことを知っていたと思われるのは落合監督と嫁だけ。
他には誰にも言えなかった。
最近で言えば、24時間テレビの水卜ちゃん(水卜麻美アナ)状態(笑)
ひとに言えないって、結構苦しいものなんだよね。
だって、開幕1週間前くらいにもなると、チーム内でも話題になる。
「今年の開幕だれだ?」って。
いよいよ開幕が近づいてきたある日、ロッカーで山本昌さんが
「開幕投手、誰だよ?」って言いだして。
みんな「昌さんじゃないんですか?」って驚いていたら
「おれは2戦目だよ~」って。
そこでざわざわし出して、川上憲伸も、野口茂樹も「違います」と…。
そうこうしているうちに、ついに順番が回ってきたけど、言うしかなかったね。
「そんなわけなじゃないですか!」って(笑)
もう隙を見てすぐに便所に逃げたのを覚えてる。
―― そういう苦しみもあったんですね(笑)
やっぱり男と男の約束みたいな気持ちもあったし、
またそういう場で言っちゃうと絶対に外に漏れるからね。
でも、本当に誰も知らなかったんだな、と。
開幕の日、試合開始30分前くらいにブルペンに入ったら、
投手コーチだった鈴木孝政さんに「お前か!」って言われたもんね。
ピッチングコーチすら知らなかった(笑)
でも、実は一人だけ耐えきれなくて言っちゃったのが井端(弘和)。
家が近所だったこともあって、前日にコメダについてきてもらって
「井端…おれ、開幕投手なんだ」って。
店中に響き渡る声で「え~!!」って言ってた(笑)
―― そしてこの年に現役を引退。最後の試合は古巣・ヤクルト戦でした。
あらためて、恵まれた野球人生だったなとは思いますね。
関根潤三さんに野村克也さん、若松勉さん、星野仙一さん、落合博満さん。
いろいろな方と縁があって、一緒にやらせていただけた。
ノムさんがよく「ピッチャーはリズム・バランス・タイミング」だと言っていた。
どれかひとつでも欠けたら全部が崩れる。
これは本当で、ピッチャーだけでなく、人生そのものに当てはまることだったな、と。
いろいろな名監督の下で、人生と言ったら大げさかもしれないけど、
生き抜く術みたいなものを学ぶことができたなと思う。
そういった人との縁に恵まれたからこそ、肘・肩を壊しても最後まで諦めずに戦えた。
名監督たちもそうですし、コーチやスタッフ、チームメイト。
そして、ナゴヤ球場で声をかけてくれた人、ファンの方々。
そのすべてのおかげで最後まで灯火を消さずに、
最後まで頑張ることができたんだと思います。
川崎憲次郎さんがMVに出演中!
おとぼとる『ReSTART』
▼ おとぼとる・プロフィール
EXILE presents VOCAL BATTLE AUDITION4にて、3万人中15人のファイナリストに選出され、
他アーティストへの楽曲提供も手がける本格派シンガーソングライター田中龍志と、
恋んトス1stシーズンレギュラーでもあり、
いつでも明るく元気で人の心を惹きつける下松翔からなるボーカルグループ。
群馬テレビ"2019高校野球中継"、"高校野球ハイライト"の主題歌も担当。