大洋の新監督に就任し、塩谷球団社長(右)とがっちり握手する関根潤三氏。左は柴山球団代表=1981(昭和56)年11月6日、横浜市中区のホテルニューグランド

◆ 白球つれづれ特別篇~関根潤三氏追悼コラム

 「関根のお父さん」として誰からも愛された関根潤三氏が9日、亡くなった。今年の初め頃に都内の病院に入院中とうかがっていたが老衰で93歳、大往生と言っていいだろう。

 関根さんとの付き合いは40年近く前にさかのぼる。1982年に横浜大洋(現横浜DeNAベイスターズ)の監督と担当記者として取材にあたった。

 当時の大洋はスポーツマスコミの大きな注目を集める球団だった。巨人の監督を解任された長嶋茂雄氏招請に動いていたからだ。ミスタープロ野球と言われる当代随一の大物を獲得するために、環境づくりも含めて呼ばれたのが関根さんだった。

 巨人の第一次長嶋政権のヘッドコーチであり、公私ともに近い関係にあったこともあるが、当時の大洋と、関根さんがネット裏で評論生活を送ったニッポン放送が密接な関係にあり、白羽の矢が立ったいきさつもある。

 飄々として泰然自若。監督就任直後に「長嶋が来たら、僕はすぐに辞めるから」と公言して周囲を唖然とさせた。そんな状態だから担当記者も忙しい。ナイターの前には東京・丸の内にある大洋漁業本社(現マルハ)を取材してから球場入り。ある時は試合をすっぽかして中部藤次郎オーナー(当時)が通う新橋の料亭に取材攻勢をかけた。

 球団サイドもあらゆるパイプを使って長嶋さんと接触、中でも関根さんと親交の厚い放送関係者が長嶋宅に出入りして獲得工作をしている。

 関係者によれば、現場復帰を望む長嶋さん本人は一時期、大洋監督に心が動いたものの、最後は亜希子夫人の反対で実現しなかったと言われる。もしこの時に大洋・長嶋監督が誕生していたらその後の野球史は大きく塗り替えられていたかもしれない。

◆ 温厚な紳士とインテリヤクザ?

 関根さんを振り返る時、欠かせないのは「元祖二刀流」であり、温厚な仮面の下に隠された江戸っ子の熱い血だろう。

 今でこそ「二刀流」と言えばエンゼルス・大谷翔平選手の代名詞だが、1950年代は関根潤三の時代だ。投手として8年間で65勝(94敗)は入団した近鉄パールズが弱小球団だったことを考えればエース級の働き。その後に左肩を痛めて打者転向すると強打者として鳴らし、通算1137本の安打を記録している(打率.279)。後に野球殿堂入りも納得の働きである。

 指導者としての関根さんには、ふたつの顔があった。ひとつは評論家時代同様の温厚な紳士。ところが我々には見せないところでは結構、短気で激しい気性ものぞかせたという。

 87年から務めたヤクルト監督時代には、四球を連発してゲームをぶち壊した投手に平手打ちが飛んだり、70年代の広島コーチ時代には若手の有望株だった衣笠祥雄氏(故人)が試合後に外出、ほろ酔い気分で帰ってくると「待ってたよ。今から素振りをしようか?」と、練習を課した鬼のような逸話も残っている。

 関根さんの盟友と言えば、後に西武の黄金時代を作る故・根本陸夫氏を忘れるわけにはいかない。プロ・アマを問わず幅広い人脈を駆使して「球界の寝業師」と他球団から恐れられた、その根本氏が一目置いたのが関根さんだった。

 旧制日大三中(現日大三高)から法大とバッテリーを組んだ仲だったが、主導権は常にエースだった関根さんにあった。結構二人して「やんちゃな時代」も経験したようだが、後に根本氏が語っている。

「あいつは怒らせたらいけないよ。あの空恐ろしさはインテリヤクザだ」。

 指導者としては抜群の成績を残したわけではないが、常に2年、3年先のチーム作りに心を砕いた。大洋時代に田代富雄や斎藤明夫、遠藤一彦各選手らを育て、ヤクルト時代は池山隆寛、広沢克己、伊東昭光各選手らを鍛えて90年代黄金期の礎を築いている。

 グラウンドとネット裏の評論家生活を含めれば80年近くを白球に捧げた人生。金田正一氏や野村克也氏と共に球界に輝いた名人がまたいなくなる。寂しい限りである。合掌。

文=荒川和夫(あらかわ・かずお)

【荒川和夫・プロフィール】
1975年スポーツニッポン新聞社入社。野球担当として巨人、西武、ロッテ、横浜大洋(現DeNA)等を歴任。その後運動部長、編集局長、広告局長等を経て現在はスポーツライターとして活動中。

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荒川和夫

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