今こそ「あの名勝負」の話がしたい
「新型コロナウイルス」の問題により、シーズン開幕の見合わせが続いているプロ野球。これまで当たり前のように行われていた野球の試合が日常から奪われ、寂しい想いをしているファンの方も多いのではないか。
そんな中、野球ファンの『#おうち時間』を盛り上げているのが、テレビやラジオで行われている「過去の名勝負」特集だ。
当事者がハイライト映像を見ながら知られざる裏話を踏まえて解説してくれるという企画は過去にもあったが、最近では貴重なフルマッチを丸ごと流してしまうという大胆な番組構成も。家でお酒を飲みながら当時の懐かしい思い出にふけるファンや、話は聞いたことがあるけどしっかり見るのは初めてという若いファンまで、SNS上では様々な盛り上がりを見せている。
昨日・5月18日、ネット上のプロ野球ファンの間で盛り上がりを見せたトピックが、「プロ野球最後の完全試合」について──。
今から26年前の1994年“5月18日”、巨人の槙原寛己が福岡ドームで広島を相手に史上15人目の完全試合を達成。これ以降、四半世紀以上もの間、完全試合を達成する投手は出てきていない。
あれから昨季までの25年間のうちに、ノーヒットノーランの達成は22回もあった。しかし、四球や失策も含めた1人の走者も出さないパーフェクトなピッチングというのはなかなかお目にかかれるものではない。そんな話をしていると、どうしても語りたくなる試合がひとつある。
今から8年前の2012年5月30日、東京ドームで行われた巨人-楽天の交流戦。巨人の杉内俊哉が史上75人目・86回目のノーヒットノーランを成し遂げた一戦である。
文=尾崎直也
“苦手意識”が生んだ快投
2012年、この年は杉内にとって勝負の年だった。
鹿児島実高から社会人・三菱重工長崎を経て、2001年のドラフト3位でダイエーに入団。徐々に頭角を現すと、ダイエーからソフトバンクに移り変わる頃にはチームのエースとして躍動。2007年から2010年にかけては4年連続で2ケタ勝利をマークするなど、リーグを代表する左腕として君臨していた。
しかし、オフの契約更改交渉では球団側と衝突することも少なくなく、募っていった不信感も引き金となって2011年オフにFA権の行使を表明。巨人と4年20億とも言われる大型契約を結び、背番号も桑田真澄の退団以来しばらく空いていた「18」に決定。大きな期待を受けて新天地へとやってきたのが2012年だった。
大きなプレッシャーの中、4月1日のヤクルト戦では移籍後初登板初勝利をマーク。順調な滑り出しを見せると、かつて“ミスター・メイ”と呼ばれるほど得意といていた5月には、ゴールデンウィークの甲子園球場で宿敵・阪神を相手に1安打完封という最高の投球を披露。巨人ファンのハートをガッチリと掴んで見せる。
その後も連勝を伸ばして迎えた5月30日、本拠地・東京ドームに楽天を迎えての一戦。楽天の先発は、前年に19勝(5敗)を挙げて防御率は1.27という驚異的な成績を残していた田中将大だった。
「楽天はあまり相性が良くなかったですし、ましてや相手が田中マー君ですからね…。僕が頑張れば必ず投手戦になると思って、あとは野手の皆さんに頑張ってもらおうと思っていました」
これは杉内が試合後に発した言葉だ。
1年前の2011年、杉内は23試合の登板で8勝7敗も防御率は1.94という好成績を残していたが、楽天に対しては2試合に登板して0勝2敗、防御率5.73と苦しい投球が続いていた。加えて、田中との投げ合いに関しては過去5度あって0勝4敗、防御率4.50。それだけに、本人の中には良いイメージがまるでなかったのだろう。
とにかく、先に点を与えることは許されない、先にマウンドを降りるわけにはいかない…。そんな責任感の強さが、快投を引き出した。
「無責任なことはできない」
初回は2つの三振を奪う上々の滑り出しを見せると、2回も2人連続で三振に斬って4者連続三振。3回は3者三振に斬って取り、3イニングを投げて打者9人から7奪三振という完ぺきな立ち上がりを見せた。
以降もストライク先行、テンポの良い投球を続け、極上の投手戦はスコアレスのまま終盤戦へ。迎えた7回、ついに均衡が破れる。
巨人は二死から阿部慎之助がレフトへの安打で出塁すると、6番の高橋由伸が甘く入った145キロ速球を逆らわずに弾き返し、高々と舞い上がった打球は左中間スタンドへ。大きな2点を左腕にプレゼントした。
得点の瞬間は喜びの表情を見せながらも、再び気持ちを引き締めてマウンドへ向かった背番号18。8回は二死からルイス・テレーロに対して内角をえぐる速球で見逃し三振を奪い、計12個目の三振で8回パーフェクト。球場の歓声も次第に大きくなっていく。
ここで“超個人的”なエピソードをひとつ。この時、筆者は大学生で、某ラジオ局にて中継補助のアルバイトをしていた。この日は幸運なことにたまたま球場勤務の担当で、通常であれば本社から送られてくる途中経過などの情報を、隣にいるディレクターとやり取りしながら、よきタイミングで放送に乗せるためのお手伝いをするのがメインの仕事になる。
しかし、この時ばかりは途中経過の情報は8回裏までになるべく出し切り、9回は杉内の投球とそれに沸き立つ球場内の音を届けることに集中。また、並行して過去の完全試合にまつわる情報、巨人では何人目、左腕では何人目などといったプチ情報を、本社の人々と協力しながら調べるのに没頭した。中継ブース内のそわそわした雰囲気に、自分がマウンドに立っているような緊張感と、歴史的な瞬間が見られるかもしれない…というわくわくでいっぱいだったことを今でも覚えている。
そんな中で、9回表がやってきた。先頭打者を投ゴロに斬り、つづく打者は変化球で空振りの三振。偉業まであとアウトひとつとなったところで、打順は9番の田中将大。楽天は右の中島俊哉を代打に送った。
球場中が「杉内」コールに包まれる中、ここも苦労せずに1ボール・2ストライクと追い込むと、外寄りの137キロまっすぐはわずかに外れてボール。球場から少しため息が漏れると、2ボール・2ストライクからの143キロは力んで高めに外れてフルカウント。ここでバッテリーが選んだ勝負球はもう一度まっすぐ。しかし、138キロは内よりやや低めに外れ、無念の「四球」。杉内は一瞬だけ思わず天を見上げ、苦笑いを浮かべた。
それでも、投手コーチがマウンドにやってきてひと息おいた後、トップに返って聖澤諒はインローの速球で見逃し三振。この日14個目の三振を奪い、9回を投げ抜いて無安打・四球1のノーヒットノーラン達成。リードした阿部と抱き合った後、マウンド上でチームメイトからの祝福を受けた。
あとひとり、あと1球というところで惜しくも逃した完全試合の偉業。それでも、本人は晴れやかな表情で試合後のインタビューに応え、四球を与えたシーンについては「三振を狙いに行ったんですけど、ツー・スリーになって、ヒット打たれるくらいならきわどいところを狙って四球でいいや、と思って投げたんですけど、やっぱり四球でしたね」と笑顔がこぼれる。
正直な感想を吐露しつつ、「無責任に真ん中に投げるよりは、しっかりコースに投げた方が良いかなと思って」。結果的には、これがノーヒットノーランという大記録につながっていく。そんな決断を振り返りつつ、強調したのは「とにかくチームが勝ったこと、それが僕は最高に嬉しいです」。記録のことよりも、ひとつの勝利を喜んだ。
時代が平成から令和へと移り変わり、“平成”の時代の完全試合は槙原寛己による一度だけ…。果たして、令和の時代に完全試合をこの目で目撃する日はやってくるのか。歴史的瞬間を楽しみに待ちたい。
2012年5月30日(水) 巨人 - 楽天
▼ 東京ドーム
楽|000 000 000|0
巨|000 000 20X|2
勝:杉内(巨)
負:田中(楽)
【スタメン】
・先攻:楽天
(中)聖澤
(二)内村
(三)高須
(一)ガルシア
(左)中村
(右)テレーロ
(遊)枡田
(捕)小山桂
(投)田中
・後攻:巨人
(中)長野
(二)藤村
(遊)坂本
(三)村田
(捕)阿部
(右)高橋由
(左)谷
(一)ボウカー
(投)杉内
プロ野球・完全試合達成者
1. 藤本英雄(巨人)
⇒ 1950年6月28日 vs.西日本(青森)
2. 武智文雄(近鉄)
⇒ 1955年6月19日 vs.大映(大阪)
3. 宮地惟友(国鉄)
⇒ 1956年9月19日 vs.広島(金沢)
4. 金田正一(国鉄)
⇒ 1957年8月21日 vs.中日(中日)
5. 西村貞朗(西鉄)
⇒ 1958年7月19日 vs.東映(駒沢)
6. 島田源太郎(大洋)
⇒ 1960年8月11日 vs.阪神(川崎)
7. 森滝義巳(国鉄)
⇒ 1961年6月20日 vs.中日(後楽園)
8. 佐々木吉郎(大洋)
⇒ 1966年5月1日 vs.広島(広島)
9. 田中 勉(西鉄)
⇒ 1966年5月12日 vs.南海(大阪)
10. 外木場義郎(広島)
⇒ 1968年9月14日 vs.大洋(広島)
11. 佐々木宏一郎(近鉄)
⇒ 1970年10月6日 vs.南海(大阪)
12. 高橋善正(東映)
⇒ 1971年8月21日 vs.西鉄(後楽園)
13. 八木沢荘六(ロッテ)
⇒ 1973年10月10日 vs.太平洋(仙台)
14. 今井雄太郎(阪急)
⇒ 1978年8月31日 vs.ロッテ(仙台)
15. 槙原寛己(巨人)
⇒ 1994年5月18日 vs.広島(福岡ドーム)