話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、9月15日の楽天戦で今季6勝目を挙げ、チームのマジック初点灯に貢献した福岡ソフトバンクホークス・和田毅投手と、亡くなった恩人との絆にまつわるエピソードを紹介する。
シーズン終盤になっても上位3チームが僅差で競り合うという、史上稀に見る大混戦となった今季(2022年)のパ・リーグ。ここにきて5連勝と頭一つ抜け出し、優勝マジックを点灯させたのはソフトバンクでした。
その立役者となったのが、41歳のベテラン左腕・和田毅です。15日、敵地で行われた楽天戦に先発し、5回・93球を投げて4安打無失点・4奪三振の好投を見せました。
一方、打線も和田を援護。2回、1死満塁のチャンスに中村晃の犠飛で1点を先制すると、3回には三森の三塁打、今宮のタイムリー二塁打、柳田の19号2ランで3点を追加。5回にも代打・柳町の2点タイムリーが飛び出し、5回終了の時点で6-0。終盤、楽天も反撃しますが、ソフトバンクが逃げ切り、7-3で快勝。「優勝マジック11」を初点灯させました。
また、和田はこれでNPB通算149勝目。節目の150勝に王手を掛け、チームをV奪回へ前進させる大きな1勝でした。
今季はコロナ禍に加えて故障者も相次ぎ、ベストメンバーがなかなか組めなかったソフトバンク。下位に低迷していてもおかしくない状況でしたが、その危機を、藤本監督の絶妙な選手抜擢(二軍本拠地の地名から「筑後ホークス」とも)でしのぎ切りました。
和田も何度か登録抹消されましたが、開幕からローテーションの一角を担い15試合に登板(1試合だけ中継ぎ、あとはすべて先発)。6勝を挙げてくれたのは、藤本監督にとって「ありがとう」の一言でしょう。何より和田は優勝経験も豊富で、勝ち方を知っているピッチャー。若手にとっても心強い存在です。
その和田にとって、先発機会が回ってきた15日の試合は「是が非でも勝ちたい」という試合でした。2年前、クモ膜下出血のため55歳の若さで急逝した、ソフトバンクの元コンディショニング担当・川村隆史さんの命日だったからです。
川村さんは大阪出身で、大阪体育大学を卒業後、ダイナミックスポーツ医学研究所を経て、1992年、福岡ダイエーホークス(当時)のトレーナーに就任。1996年~2015年まではコンディショニングコーチ、2016年以降はコンディショニング担当として、実に29年間にわたり、選手たちのコンディション・体調管理にあたってきました。
どの球団にもコンディショニング担当のスタッフはいますが、川村さんは異色の存在でした。豊富な経験と深い知識に加え、関西人らしい陽気なキャラクターでチームのムードメーカーも買って出るなど、どの選手からも愛される存在だったのです。
工藤公康・ソフトバンク前監督も、西武からダイエーに移籍した際、川村さんに世話になった1人です。47歳まで現役でプレーした工藤氏。ダイエー時代、川村さんにトレーニング方法などを相談したことが大いに役立ちました。川村さんが亡くなった当時、監督だった工藤氏はこうコメントしています。
勝負に徹するタイプの工藤前監督に「試合どころではなかった」と言わせるほど、川村さんはチーム内で大きな存在でした。選手たちには訃報を伏せ、試合後のミーティングで初めて伝えた工藤監督。もし試合前に伝えていたら、チーム内に動揺が走り、本当にゲームどころではなかったかも知れません。
和田も、川村さんに世話になった1人でした。プロの体のつくり方や、長くプレーするためのトレーニング方法を教わったことが、41歳になったいまも第一線で投げているベースになっています。
メジャーでは故障も経験。5年ぶりにソフトバンクへ復帰した2016年、自分の体のことをよく知っている川村さんが、まだチームにいてくれたことは和田にとって何より心強かったでしょう。
その恩人の命日が、くしくも自分の登板日に。しかも負けられない一戦。和田は「絶対に勝つ」と固く決意してマウンドに登りました。ところが初回、楽天の1番打者・山崎に三塁打を打たれます。
無死三塁、一打先制の危機に、和田は2番・鈴木大地をピッチャーゴロに打ち取り、三塁に送球。三走の山崎は飛び出していて、完全にアウトのタイミングでしたが、これを三塁手・周東が捕り損ねてしまいます。無死一・三塁で絶体絶命のピンチになるかと思いきや……何と、アウトになったと勘違いした山崎が、ベースから離れたまま仰向けの状態で天を仰いでいたのです。
周東はボールを拾い上げ、すかさず山崎にタッチ。稀に見る珍事で、状況は一死一塁に変わり、和田は結局この回を無失点で切り抜けました。
2回にはこんなことがありました。二死から茂木の当たりがピッチャー横へ。和田はこれをつかみ損ね、握り直して一塁へ送球しましたが、倒れながら投げたため悪送球になってしまいます。このとき、左のふくらはぎが軽く吊ったという和田。
しかし、ベンチに戻ってから“奇跡”が起きます。この日、ベンチには川村さんが生前に着ていた「01番」のユニフォームが飾られていました。
これは一種の“自己暗示”なのでしょうが、どれだけ川村さんの存在が大きかったかを示すエピソードでもあります。
「川村さんのおかげ」といえば……この日、ソフトバンクは前夜戦った福岡から、当日移動で仙台入りしました。ところが、飛行機のトラブルで野球道具の到着が遅れ、プレイボールまで2時間を切ったころにようやく到着。野手は屋外での打撃練習はしないまま、ぶっつけ本番で試合に臨むことになったのです。
ただ、ソフトバンクは11連戦の真っ最中。この「束の間の休息」が功を奏したのか、打線爆発につながりました。先制点を挙げた中村晃も、ダメ押しの一発を打った柳田も、川村さんにとりわけ深く可愛がってもらったメンバーです。
選手・首脳陣全員が「川村さんのためにも、きょうは絶対に勝つ!」と誓って臨んだゲーム。自分のためだけではなく「誰かのために」という気持ちになったとき、人は大きな力を発揮します。
150勝まであと1勝に迫った和田も、「いまはそんなことよりチームの優勝」と語り、こうコメントしました。
この日のソフトバンクは、まさに「全員一丸」で戦い相手を圧倒。この正念場で改めてチームが1つになれたことは、マジックが出た以上に大きなことでした。
『川村さんの命日に昨年は勝つことができなかった。勝ちたいということで、自分のピッチングを川村さんが助けてくれたんだと思います』
~『日刊スポーツ』2022年9月15日配信記事 より(和田のコメント)
その立役者となったのが、41歳のベテラン左腕・和田毅です。15日、敵地で行われた楽天戦に先発し、5回・93球を投げて4安打無失点・4奪三振の好投を見せました。
一方、打線も和田を援護。2回、1死満塁のチャンスに中村晃の犠飛で1点を先制すると、3回には三森の三塁打、今宮のタイムリー二塁打、柳田の19号2ランで3点を追加。5回にも代打・柳町の2点タイムリーが飛び出し、5回終了の時点で6-0。終盤、楽天も反撃しますが、ソフトバンクが逃げ切り、7-3で快勝。「優勝マジック11」を初点灯させました。
また、和田はこれでNPB通算149勝目。節目の150勝に王手を掛け、チームをV奪回へ前進させる大きな1勝でした。
今季はコロナ禍に加えて故障者も相次ぎ、ベストメンバーがなかなか組めなかったソフトバンク。下位に低迷していてもおかしくない状況でしたが、その危機を、藤本監督の絶妙な選手抜擢(二軍本拠地の地名から「筑後ホークス」とも)でしのぎ切りました。
和田も何度か登録抹消されましたが、開幕からローテーションの一角を担い15試合に登板(1試合だけ中継ぎ、あとはすべて先発)。6勝を挙げてくれたのは、藤本監督にとって「ありがとう」の一言でしょう。何より和田は優勝経験も豊富で、勝ち方を知っているピッチャー。若手にとっても心強い存在です。
その和田にとって、先発機会が回ってきた15日の試合は「是が非でも勝ちたい」という試合でした。2年前、クモ膜下出血のため55歳の若さで急逝した、ソフトバンクの元コンディショニング担当・川村隆史さんの命日だったからです。
川村さんは大阪出身で、大阪体育大学を卒業後、ダイナミックスポーツ医学研究所を経て、1992年、福岡ダイエーホークス(当時)のトレーナーに就任。1996年~2015年まではコンディショニングコーチ、2016年以降はコンディショニング担当として、実に29年間にわたり、選手たちのコンディション・体調管理にあたってきました。
どの球団にもコンディショニング担当のスタッフはいますが、川村さんは異色の存在でした。豊富な経験と深い知識に加え、関西人らしい陽気なキャラクターでチームのムードメーカーも買って出るなど、どの選手からも愛される存在だったのです。
工藤公康・ソフトバンク前監督も、西武からダイエーに移籍した際、川村さんに世話になった1人です。47歳まで現役でプレーした工藤氏。ダイエー時代、川村さんにトレーニング方法などを相談したことが大いに役立ちました。川村さんが亡くなった当時、監督だった工藤氏はこうコメントしています。
『(監督として)戻ってきても、代わらず頑張られているんだなと、一緒にやるのを楽しみにしていた。年齢的に近いだけに、彼の元気が僕の元気にもなっていた。こういう形でお別れしなくちゃいけないのがつらい。今日は試合どころではなかった』
~『西日本スポーツ』2020年9月16日配信記事 より ソフトバンク・工藤監督(当時)のコメント
勝負に徹するタイプの工藤前監督に「試合どころではなかった」と言わせるほど、川村さんはチーム内で大きな存在でした。選手たちには訃報を伏せ、試合後のミーティングで初めて伝えた工藤監督。もし試合前に伝えていたら、チーム内に動揺が走り、本当にゲームどころではなかったかも知れません。
『みんな世話になっている人たちばかり。心の傷もあるだろうし、涙する人間も多かった』
~『東スポWeb』2020年9月17日配信記事 より 工藤監督(当時)のコメント
和田も、川村さんに世話になった1人でした。プロの体のつくり方や、長くプレーするためのトレーニング方法を教わったことが、41歳になったいまも第一線で投げているベースになっています。
メジャーでは故障も経験。5年ぶりにソフトバンクへ復帰した2016年、自分の体のことをよく知っている川村さんが、まだチームにいてくれたことは和田にとって何より心強かったでしょう。
その恩人の命日が、くしくも自分の登板日に。しかも負けられない一戦。和田は「絶対に勝つ」と固く決意してマウンドに登りました。ところが初回、楽天の1番打者・山崎に三塁打を打たれます。
無死三塁、一打先制の危機に、和田は2番・鈴木大地をピッチャーゴロに打ち取り、三塁に送球。三走の山崎は飛び出していて、完全にアウトのタイミングでしたが、これを三塁手・周東が捕り損ねてしまいます。無死一・三塁で絶体絶命のピンチになるかと思いきや……何と、アウトになったと勘違いした山崎が、ベースから離れたまま仰向けの状態で天を仰いでいたのです。
周東はボールを拾い上げ、すかさず山崎にタッチ。稀に見る珍事で、状況は一死一塁に変わり、和田は結局この回を無失点で切り抜けました。
『川村さんが助けてくれたのかなって。初回はそうだと思う。力を貸してくれたんだなと思って投げていました』
~『日刊スポーツ』2022年9月15日配信記事 より(和田のコメント)
しかし、ベンチに戻ってから“奇跡”が起きます。この日、ベンチには川村さんが生前に着ていた「01番」のユニフォームが飾られていました。
『(ベンチに飾られた)川村さんのユニホームを触って、ふくらはぎを触ったら治った』
~『西日本スポーツ』2022年9月16日配信記事 より(和田のコメント)
これは一種の“自己暗示”なのでしょうが、どれだけ川村さんの存在が大きかったかを示すエピソードでもあります。
「川村さんのおかげ」といえば……この日、ソフトバンクは前夜戦った福岡から、当日移動で仙台入りしました。ところが、飛行機のトラブルで野球道具の到着が遅れ、プレイボールまで2時間を切ったころにようやく到着。野手は屋外での打撃練習はしないまま、ぶっつけ本番で試合に臨むことになったのです。
ただ、ソフトバンクは11連戦の真っ最中。この「束の間の休息」が功を奏したのか、打線爆発につながりました。先制点を挙げた中村晃も、ダメ押しの一発を打った柳田も、川村さんにとりわけ深く可愛がってもらったメンバーです。
『川村君が休ませてくれたのかもね。みんな11連戦で疲れているから荷物を遅らせて休ませてやろうとね』
~『西日本スポーツ』2022年9月15日配信記事 より(藤本監督のコメント)
選手・首脳陣全員が「川村さんのためにも、きょうは絶対に勝つ!」と誓って臨んだゲーム。自分のためだけではなく「誰かのために」という気持ちになったとき、人は大きな力を発揮します。
150勝まであと1勝に迫った和田も、「いまはそんなことよりチームの優勝」と語り、こうコメントしました。
『調子うんぬんではなく、気持ちで攻めて投げていくだけ。一球一球、一人一人、最後まで全力で投げ抜きたい』
~『西日本スポーツ』2022年9月16日配信記事 より
この日のソフトバンクは、まさに「全員一丸」で戦い相手を圧倒。この正念場で改めてチームが1つになれたことは、マジックが出た以上に大きなことでした。