和田毅が6年ぶり自身4度目となる開幕投手に内定
ソフトバンク・和田毅が6年ぶり自身4度目となる開幕投手を務めることが内定した。36歳での開幕投手となれば、球団史上最年長。とはいえ、自身が「生命線」と語るストレートのキレは衰えを知らない。
ストレートでの空振り率は昨季の規定投球回到達者のなかでトップである。チェンジアップやスライダー、カーブなどの変化球を交える巧みな投球術もあり、日本球界に復帰した昨季、いきなり最多勝と最高勝率の二冠に輝いた。分厚い選手層を誇るソフトバンクのなかにあっても、和田の開幕投手起用はなんら不思議なことではないのだ。
ただ、6年ぶりと聞くとやはり長いブランクのようにも感じる。和田の場合は2012年以降にメジャーへ挑戦したことによるものだが、全盛期にある各球団のエースが開幕投手を務めるのが一般的であるため、あまり長くブランクが空くことはないのではないかと思いがちだ。しかし、実際には和田以上のブランクを経て開幕戦のマウンドに立った投手は数多くいる。
例えば、1980年以降に限ってみても、7人の選手が7年以上のブランクを経て開幕投手を務めている。最長ブランクは藤井秀悟(元ヤクルトほか)の11年。DeNA時代の2013年にヤクルト時代の2002年に以来となる開幕マウンドに立った。他にも久保康友(現DeNA)、桑田真澄(元巨人ほか)の9年、斉藤明夫(元大洋、横浜)、高橋一三(元巨人、日本ハム)、西口文也(元西武)の7年と枚挙にいとまがない。
伝説の川崎憲次郎・開幕投手抜擢の裏に隠された落合監督のしたたかさ
なかでも、野球ファンに強烈な印象を残したのは川崎憲次郎(元ヤクルト、中日)だろう。2000年オフにFA権を行使してヤクルトから中日に移籍した川崎だったが、度重なる右肩痛のために2001年以降の3年間は一軍での登板は一度もなかった。
ところが、2004年から中日を率いた落合博満監督(当時)は、その年の正月早々に川崎に電話すると、ヤクルト時代の1994年以来10年ぶりとなる開幕投手に起用することを告げたという。
そして迎えた広島との開幕戦。当時のセ・リーグは予告先発制度を採用していなかったため、先発オーダーが発表されると、ファンは「川上(憲伸/元中日ほか/当時のエース)の間違いではないのか」と浮足立った。当の川崎は初回こそ三者凡退に抑えたものの、続く2回には広島打線につかまり、1回2/3、5安打3四死球5失点で降板。1998年には17勝を挙げて最多勝のタイトルのほかに沢村賞も獲得した川崎は、木っ端みじんに打ち砕かれた。
試合後、川崎起用の意図について「このチームが変わるために3年間苦しんだやつの背中を押してやることが必要だと考えた」と落合監督は語っている。実際、当時の選手会長だった井端弘和(元中日、巨人)は「川崎さんの姿を見て胸が熱くなった。諦めないことの大切さを、個人としてだけでなくチームとして知った」との発言を残している。
どんなに実績がある選手も年齡やケガによりいつかは野球ができなくなる。1試合、1球、その瞬間を大切にしろという落合監督のメッセージを受け取った選手たちは、5点差をひっくり返して8-6で逆転勝利。その後、中日の全盛期を築く落合政権の初白星となった。
その一方で、相手先発の黒田博樹(元広島ほか)を高く評価していた落合監督は、川崎を起用した初戦は負ける覚悟だったともいう。そのまま2戦目も負けてしまえば、3戦目は絶対に負けられない。そして、「開幕カードで一番大事な試合」と落合監督が語る3戦目の先発マウンドにはエース・川上を送り出し、見事にサヨナラ勝利をもぎ取っている。選手の奮起を促しながら、したたかな戦略も併せ持つ――落合監督らしさがいきなり発揮された開幕カードであった。
ここに挙げた川崎の例は特殊なケースかもしれないが、開幕投手の決定には、チーム事情や首脳陣の思惑などさまざまな要素が絡む。もちろん、最大の要素は各投手の力量である。ただ、野球というスポーツは若さや体力以上に経験や技術がものを言う競技だ。豪腕投手がベテランと呼ばれる年齡になると技巧派に変貌してエースの座を奪還するケースもあるだろう。長期ブランクを経た、開幕投手のかつての投球スタイルと比較しながら観戦するという楽しみ方もできそうだ。
文=清家茂樹(せいけ・しげき)