時代の象徴
ついにその時が来た。
シアトル・マリナーズのイチローが、球団の会長付特別補佐に就任したことが発表された。なお、今季の残り試合の選手出場はなく、チームに同行しながら練習参加して仲間たちをサポートするという。
現在44歳。来季現役復帰の可能性は残っているが、メジャー歴代21位の通算3089安打、前人未到の日米通算4367安打を放った男のキャリアにおいて、ひとつの区切りとなる決断である。
2001年に渡米した背番号51は、いきなり242安打をマーク。ライトから強肩レーザービームをぶっ放し、首位打者や盗塁王、新人王に加えてMVPまで獲得する大活躍をしてみせた。04年には262安打でMLBシーズン最多安打記録を更新。07年のオールスター戦では、ランニングホームランを放ってMVPを獲得。日本代表としても、WBCで2度の世界一に貢献するなど、昭和球界の象徴が長嶋茂雄と王貞治の“ON”なら、平成は“イチローの時代”と言っても過言ではないだろう。
「7年連続首位打者」「通算打率.353」
気が付けば、メジャーで18シーズンを過ごしたわけだが、恐らくリアルタイムでオリックス・ブルーウェーブ時代のイチローを見ていない若い野球ファンも多いと思う。
130試合制で210安打を放ったのが94年で、27歳の日本ラストイヤーが2000年のことだ。その間、7年連続で首位打者に輝き、生涯打率算定基準となる通算4000打数には約400打数ほど足りなかったが、3619打数で1278安打を放ち、NPB通算打率は.353という凄まじい数字が残っている。
高卒1年目からウエスタン・リーグで首位打者を獲得。2年目もウエスタン新記録となる30試合連続安打、45試合連続出塁と打ちまくっていたが、当時のオリックス一軍首脳陣は一度も二軍戦を見に来ることはなかったという。それが94年に仰木彬監督がやってきて、新井宏昌打撃コーチの発案で鈴木一朗から“イチロー”へと登録名変更。94年の開幕戦は「2番・センター」でスタメンに抜擢された。
名前を変えたのも、何とか自分を売り出そうとしてくれるためだと知っていた。その気持ちに応えたくて、弱冠20歳のイチローはヒットを積み重ねる。
94年にシーズン210安打。95年は“がんばろうKOBE”での初優勝。96年にはオリックス初の日本一…。その間、3年連続でパ・リーグMVPを受賞と、瞬く間に球界の頂点に登り詰めた男は、猛スピードでオリックスというチームの枠を超えたスーパースターへと成り上がった。
伝説の1996年オールスター戦
そんな中、“真夏の祭典”オールスター戦で起こったのが、今も語り継がれる「投手・イチロー」の登板である。
96年7月21日の第2戦、パ・リーグの4点リードで迎えた9回表二死。次打者は松井秀喜だった。あと1人で勝利という場面、全パを指揮する仰木監督は、いきなり「ピッチャー・イチロー」をコール。爆発的に盛り上がるスタンドを背にライトから駆け寄り、マウンドでコーチ役の西武・東尾修監督(当時)からボールを受け取る背番号51。思わず苦笑いするゴジラ松井に、全セ野村克也監督はこう聞く。
「お前、イヤだろう?」
そして、松井の代わりにコールされたのが、投手の「代打・高津」というわけだ。
結局、MAX141キロをマークしたイチローは、高津を遊ゴロに打ち取りゲームセット。前年の日本シリーズからやり合っていた二人の名将。球宴を冒涜するなという堅いノムさんと、投手・イチローが最大のファンサービスと考えた仰木監督。当時のファンの間でも「さすがに仰木さんやりすぎ」派と、「お祭りなんだからイチローvs松井を見せてくれよ」派で意見が割れたが、確かに90年代の球界は73年生まれのイチローと、74年生まれのゴジラ松井を中心に回っていた。
そしてメジャーへ…
デビュー直後は現オリックス監督の福良淳一や現二軍監督の田口壮に可愛がられ、オーバーサイズのヒップホップファッションになんだかよく分からないdj hondaの黒いキャップで球場入り。唐突に巨人と中日の“10.8決戦”が行われたナゴヤ球場に出かけ、内野席で焼そばを頬張る天真爛漫な若者のイメージがあったイチローも、97年あたりからは“孤高の天才打者”のような立ち位置になっていく。
6年連続のリーグ最多敬遠数に、執拗な内角攻め。中には背番号51が打席に入ると、インパクトの瞬間に大声で叫び集中力を削ぐという子どものような手段に出る相手捕手もいた。
やがて年俸はチームぶっちぎりトップの5億円を突破。多くのテレビCMに出演し、私生活では女優との交際を追いかけられ、遠征時は混乱を避けるため新幹線のチームメイトとは別行動で飛行機移動することも。
99年、シアトル・マリナーズの春季キャンプに招待されたイチローは、8月下旬に右手に死球を受けて骨折。一軍定着以来最少の103試合の出場に終わると、開幕を4番で迎えた2000年も、夢の4割を狙える勢いで打ちまくっていたが、夏に右腹斜筋挫傷で離脱。そして、20世紀最後のシーズンにパ・リーグ歴代最高の打率.387を置き土産に、10月12日にポスティングシステムを利用してのメジャー挑戦を正式に表明するわけだ。
翌13日、グリーンスタジアム神戸で行われたペナント本拠最終試合となる西武戦。26歳のイチローは9回にライトの守備に就き、2万6000人のファンにお別れ。ちなみに、この年のオリックスは4位に終わったが、スタンドからは罵声ではなく惜別の「イチローコール」が鳴り響いた(ただ、当時3万3000人以上収容できる本拠地が満員にはならなかったのは今となっては驚きだ)。
常識を破壊し続けた野球人生
正直、オリックス在籍後半というと、もはや「天才イチローが何をしても驚かない」という領域にまで達していたため、ニュースになることも少なかった。チームは勝てなくても、当たり前のように毎年首位打者。モチベーション維持も難しくなり、その周囲を取り巻く一種のマンネリ感が、イチローのメジャー移籍への後押しとなったのだろう。
日本で9年、アメリカで18年。平成4年から平成30年までを駆け抜けたキャリア。常識で考えたら、来季以降の現役復帰も難しいだろうが、イチローはこれまであらゆる常識を破壊してきた男だ。
子どもの頃はプロ野球選手なんかなれるわけないと笑われ、メジャー移籍時はあんな小さい身体で通用するわけないと否定された。そのすべてを通算4367安打という圧倒的な結果で覆してきた野球人生だった。過去の球界の常識や価値観はこの選手には当てはまらないのではないだろうか?
だから、これからの背番号51の活躍を楽しみにしたい。
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)