コラム 2019.03.08. 18:15

メキシコ野球と日本人選手の歴史 流離人のたどり着く場所

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根鈴らの入団を伝える地元新聞記事 [写真提供=根鈴雄次氏]

独立リーグのレジェンドからNPBの元主力まで


 侍ジャパンの強化試合を前に、あまり知られていないメキシコ野球と日本人選手の歴史を振り返っていくこの企画。前回は日本人メキシカンリーガーのパイオニア・小川邦和という選手について紹介したが、小川の挑戦以降はメキシコのみならず、日本の野球選手が国外のリーグに目を向けることがほとんどなかった。


 そんな中、1995年に野茂英雄がメジャー挑戦の夢を叶えると再び流れが変わる。多くの日本人選手が海を渡って夢を追いかけるようになった結果、メキシコでプレーする日本人選手というのも増えていく。

 日本でのプロ経験がないなか、モントリオール・エクスポズと契約を結んだのが根鈴雄次という選手。3Aでシーズンを過ごした翌2001年にはメジャーキャンプに参加するなど、夢のメジャーリーグにあと一歩のところまで迫ったが、残念ながらその夢は叶わず。翌2002年の開幕はメキシコのプエブラ・ペリーコス(パロッツ)で迎えることになった。

 この時のキャンプでは、ロッテをリリースされて所属先を探していた光山英和(現・楽天コーチ)と同部屋だったという。光山はこのキャンプ中に横浜(現DeNA)と契約したためメキシコを去ったが、根鈴は自身3カ国目となるメキシコで開幕戦のスタメンの座をゲット。しかし、骨折を押して出場したのがたたり、4試合で1安打の数字を残してリリースとなってしまった。

 また、この同年には、光山の近鉄時代の同僚でもあり、「ピッカリ投法」でもお馴染みの佐野慈紀もメキシコシティ・ティグレスでプレーしている。

 佐野は中日をリリースされた後、2011年はアメリカ独立リーグでプレー。先発投手として6勝6敗、防御率2.66の成績を収め、2012年シーズン途中にティグレスからのオファーを受け契約した。

 しかし、メキシコでは3度先発して2敗と結果を残せず、この年限りでメキシコを去っている。ちなみに、ティグレスにはこの球団がカンクンに移転後の2010年にメジャーリーグで51勝を挙げた大家友和が入団しているが、公式戦では一度も登板することなく、開幕後1週間でリリースされている。

 その後、大家は日本で古巣・横浜に復帰。佐野や大家の例を見ると、日本やメジャーの第一線でプレーしていても、力が落ちるとなかなかメキシカンリーグでは通用しないことがわかる。


かつてのメジャーリーガーも…


 それでも、かつてのスタープレーヤーたちは夢をもう一度とこのリーグをステップアップの場として選んでいる。大家だけでなく、2人の元日本人メジャーリーガーがメキシカンリーグのマウンドに立ったことを知っている人は多くないだろう。

 2006年、ティファナ・ポトロス(コルツ)というチームには、メジャー通算16勝のマック鈴木と、かつて阪神でエースとして活躍した藪恵壹が在籍していた。

 前年の2005年にメジャーに挑戦し、アスレチックスのセットアッパーとして活躍した藪だったが、37歳という年齢がネックとなり契約更新はならず。そこでメキシカンリーグに活躍の場を求めた。ティファナでは11試合にリリーフ登板し、勝ち負けなしの5セーブに終わったが、そのオフもウインターリーグのメヒカリでプレーをした後、翌2007年の浪人生活を経て、ジャイアンツでメジャー復帰を果たしている。

 一方のマックは、前年までプレーしていたオリックス退団後、ティファナに入団、リリーバーとして4勝5敗11セーブ、防御率3.88と結果を残し、メキシコでのシーズン後にはカブスと契約して3Aに合流した。その後も、2009年を除く2010年までの4シーズンをメキシカンリーグで過ごし、22勝16敗14セーブの成績を残した一方、ウインターリーグでも4シーズンに渡ってプレーしている。


メキシカンドリームを求めて


 2009年には、近鉄いてまえ打線の中軸を担っていた吉岡雄二がヌエボラレド・テコロテスで活躍。三塁手のレギュラーとして82試合に出場し、打率.285、5本塁打、37打点という成績で、全盛時には及ばないものの、チームの戦力として貢献している。

 楽天を前年限りで自由契約となった吉岡もまた、アメリカに新天地を求めるも受け入れ先がなく、開幕後にヌエボラレドと契約したのだが、チームはあくまでも急場の補強としか考えていなかったようで、このシーズン限りで吉岡をリリースした。なお、吉岡は翌2010年もメキシコに留まり、アカデミーのコーチをしながら現役続行を模索したが、この年限りで引退を表明した。

 吉岡と同じ2009年には、ダイエー・ソフトバンクで8年プレーし、前年限りで戦力外となっていた山村路直がアメリカ球界に挑戦。アリゾナのトライアウトリーグに参加したものの、アメリカでは契約をとれず。メキシコに渡ってモンテレイにテスト入団したが、9試合で勝ち星なしの3敗、防御率8.22という成績ですぐにリリースされた。

 このように、力が衰えていく中でステップアップのラストチャンスの場となっている「メキシカンリーグ」という舞台だが、そこから這い上がってもうひと花というのは簡単ではない。

 そういう目から見ると、2010年にメキシカンリーグに挑戦した岡本直也のケースは“メキシカンドリーム”といえるかもしれない。

 横浜(現DeNA)に2002年から2009年までの8シーズン在籍していた岡本だったが、一軍での登板はリリーフのわずか10試合。2008年以降は一軍での出番がないまま、26歳で自由契約となった。

 その後、12球団合同トライアウトに参加するも、NPB球団からのオファーはなし。やはり新天地を求めてメキシコに渡り、名門中の名門であるメキシコシティ・ディアブロスロッホス(レッドデビルズ)のキャンプに参加した。

 ここで、同じオーナー(メキシコでは同一資本が複数球団を保有することが認められている)が保有するオアハカ・ゲレーロスとの契約にこぎつけたものの、シーズン開幕直後にはカンペチェ・ピラタス(パイレーツ)にトレードされてしまう。

 2チーム合計で21試合に登板し、1勝2敗で防御率3.56と決して悪い成績ではなかったが、開幕後ひと月でまさかの自由契約。再び路頭に迷いかけるが、捨てる神あれば拾う神ありで、マイナーリーグである北メキシコリーグのエンセナーダに入団が決定。ここで2勝20セーブと守護神として大活躍を見せると、これがヤンキースのスカウトの目に留まってメジャー球団との契約を勝ち取った。

 その後、アメリカでは2Aどまりで、2011年シーズン途中に解雇されてしまうものの、ヤクルトでNPB復帰を果たし、4年ぶりの一軍マウンドにも立った。この年限りで岡本は現役を引退するのだが、この時28歳。メキシコでの経験によって、心置きなく第2の人生に踏み出せたことだろう。

 また、2017年には、16歳でブレーブスと契約し、のちに独立リーグのスラッガーとして活躍した島袋涼平がレオン・ブラボーズ(ブレーブス)に入団。いきなりスターティングラインナップに名を連ねるも、3試合で3安打・5打点、打率.250とそれなりの結果を出しながらリリースされた。メキシコの野球は日本と同じで長距離砲を外国人選手に依存しているため、ホームランを打たないと残留は厳しいようだ。

 そういう点では、中距離砲タイプの荒波には茨の道が待ち構えているだろうが、彼を含め、3人の日本人選手には、ぜひとも「メキシカンドリーム」を叶えてほしい。


文=阿佐智(あさ・さとし)


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