“隠し玉”ヒストリー【第3話:信樂晃史】
毎年、ドラフト指名選手のなかには、野球とは縁遠く思える職種の「変わり種」がいるものだ。
なかでも有名なのは、「球界の寝業師」の異名を取った西武・根本陸夫の手によってドラフト1位指名を受けた森山良二だろう。北九州大を2年で退学した後、ONOフーヅというスーパーでレジ打ちをしていた森山は、1986年のドラフト会議で西武から驚きの1位指名を受けた。
1991年にダイエーからドラフト最下位となる10位指名を受けた田畑一也は、実家の工務店で働く大工。1999年にヤクルトから6位指名を受けた本間忠も、同じく実家の工務店を手伝いながらクラブチーム・野田サンダースでプレー。2004年・日本ハム7巡目の中村渉も、クラブチームの三菱製紙八戸クラブでプレーしつつ、実家の畳店を手伝っていたという。
この他にも「元フリーター」など、異色の経歴が話題になる選手は毎年のように現れる。
近年の“特殊な職種”のドラフト指名選手といえば、2015年のロッテ6位・信樂晃史が記憶に新しい。信樂は宮崎梅田学園という自動車学校の硬式野球部出身。いわゆる「自動車教習所の教官」だった。
“練習嫌い”を克服してプロの世界へ
福岡大時代から140キロ台後半の快速球を投げるなど、その潜在能力は高かったが、自他共に認める練習嫌い。大学同期の捕手である梅野隆太郎(現阪神)からは強い口調で「練習しろよ」と言われてきたが、のれんに腕押しだった。
野球は大学で区切りをつけるつもりだったが、就職活動をするなかで野球への思いが再燃する。知人のつてをたどり、地元・宮崎の宮崎梅田学園に行き着いた。
宮崎梅田学園は、選手のほぼ全員が自動車学校の指導員を務める異色の企業チームである。信樂はまず、第一種普通自動車運転免許教習指導員の資格を取得するため猛勉強しなければならなかった。
また、各チームが始動してキャンプを張る3月といえば、自動車学校にとって繁忙期である春休み。本業が大忙しで、野球は自主練習が中心になる。秋には秋季キャンプを張るNPB球団も多いため、球場が使えないというハンデもあった。
決して恵まれた環境とは言い難いが、そのなかで信樂は大学時代とはうってかわって野球に前のめりで取り組んだ。誰も見ていない夜道を必死で走り込み、肉体改造にも着手。フォームを修正したことで、決め球のツーシームが決まるようになった。自動車学校の仕事も「人に教えることで、自分自身教わることも多いです」とプラスに換えた。
再び“指導”の道へ
在籍した2年間で都市対抗出場はならなかったが、九州予選での好投が認められ、九州屈指の強豪・JR九州の補強選手に抜擢。東京ドームのマウンドも経験した。
ドラフト前には4球団から調査書が届き、ついにロッテからドラフト指名を受ける。宮崎梅田学園から初めてのプロ野球選手になった。
プロでは技術的にも身体的にも伸び悩み、わずか在籍2年で戦力外通告を受けて現役を引退。それでも、現在は郷里の宮崎に帰り、ソフトバンクのジュニアアカデミー宮崎校のコーチを務めている。
一方、宮崎梅田学園は信樂が抜けた後も地道に活動を続け、2019年夏には悲願の都市対抗初出場を果たした。近い将来、信樂に続くプロ選手も生まれるかもしれない。
文=菊地高弘(きくち・たかひろ)