『男たちの挽歌』第3幕:鈴木健
「捕らない。捕らないっ。捕りません!」
実況アナウンサーがそう絶叫する中、三塁を守る村田修一はあえてそのファールボールを捕らずに見送った。打席にいるヤクルトの背番号9から思わず笑みがこぼれる。横浜ベンチの大矢明彦監督まで笑っている。いまだに平成引退試合の名シーンとして語り継がれる2007年10月4日、神宮球場。「鈴木健、最後の1年」での出来事だ。
ちなみにこの2日後にも村田修一は、佐々岡真司の引退試合で全力のストレートを広島市民球場の左中間スタンドにはじき返した。「打たれて気持ちよかった」と佐々岡。それにしてもときにスカし、ときにガチンコで受ける引退試合における村田さんの助演男優ぶりが半端ない。さすが男・村田……って、気が付けばその佐々岡も広島新監督である。あれから12年の歳月が経過した。
さて、07年の鈴木健は37歳。プロ入り20年目のベテランだ。浦和学院時代は当時の最多記録となる高校通算83発をかっ飛ばし、近年で言う清宮幸太郎(日本ハム)のような存在だった。1987年(昭和62年)の多くのスポーツ新聞では、夏の甲子園の注目球児として「投の伊良部秀輝(尽誠学園)、打は鈴木健」と特集が組まれている。
“スズマー”(のちに“ケンマー”に)”や“左の清原”と、あの清原和博以来の超高校級スラッガーとして騒がれ、早大進学が確実視されながら87年ドラフト会議で西武ライオンズから1位指名を受ける。常勝西武で3番秋山幸二と4番清原のあとを打つ、未来の「5番三塁」構想が前提の指名だった。
「背番号8」への期待と逆襲
もちろん高卒1年目から31本塁打を放った清原と同じく、背番号8が与えられた鈴木にも大きな期待がかかったが、当時の西武は黄金時代の戦力充実期。三塁にはチームリーダーの石毛宏典がいた。球団は焦らずサンノゼ・ビーズへ野球留学させて、この和製大砲候補をじっくり育てようとする。
ケンマーは太りやすい体質に加え、守備や木製バットの対応に苦労した(このあたりの課題も現代の清宮と近い)が、2年目に一軍でプロ初安打。4年目の91年9月23日には、天王山の近鉄戦でプロ初となる同点アーチを放ち、広島との日本シリーズでは第6、7戦でスタメン起用された。
『週刊ベースボール』のインタビューでは「初めのころは周りからいろいろ言われてイヤだったけど、忘れられたドラフト1位は気楽です」なんて逆襲を誓い、自主的な夜間練習でマシン打撃をこなし、遠征先でも熱心にバットを振った。
6年目の93年には12本塁打で初の二桁に乗せ、デストラーデが抜けたあとの3番や5番を任せられることも増える。ついに「秋山、清原、鈴木」のクリーンナップが実現したのである。94年には規定打席不足(306打席)ながら打率.350のハイアベレージを記録。96年にはリーグ4位の打率.302に21本塁打と完全に主軸として定着した。
96年オフに清原がFAで巨人へ移籍すると、新4番に抜擢。当初、東尾修監督は4番垣内哲也を考えていたが、垣内はオープン戦で腰痛に加え左ヒザを痛め「4番サード鈴木」に落ち着いた。ちなみに古谷実の名作漫画『僕といっしょ』に出てくるギャグ、「垣内!!西武の垣内!!」の元ネタは、この垣内哲也である。だからなんなんだ……というのは置いといて、プロ10年目に鈴木はキャリア最高のシーズンを過ごす。
133試合で打率.312(リーグ3位)に94打点。得点圏打率.373は、イチローと並んでリーグトップ、90四球も1位で、最高出塁率(.431)とベストナインを獲得。チームは10月3日のダイエー戦の延長10回裏、4番鈴木の18号サヨナラアーチで3年ぶりのリーグ優勝を決める。翌98年から選手会長を務め、この頃の西武は松井稼頭央の台頭や翌99年の松坂大輔の入団もあり、黄金時代とは別の若く新しいチームへと見事に変貌を遂げつつあった。
もう一花と感謝の15球
ところが、2000年代初頭の鈴木は打撃不振に加え、世代交代の中で徐々に出番を失う。松井がトリプルスリーを達成し、アレックス・カブレラが55本塁打を放ち、チームが優勝した02年は、65試合の出場に終わる。そのオフにヤクルトからの申し入れで金銭トレードが成立。すでに33歳だったこともあり、それほど注目度は高くなかったが、ここで鈴木は劇的な復活を果たす。
無名の新人のようにオープン戦序盤から出場できるよう身体を鍛えなおすと開幕から打ちまくり、4番アレックス・ラミレスのあとの「5番サード」に定着。夏場まで首位打者争いを独走してみせた。チームは巨人と同率3位、最終的にキャリアハイの打率.317(リーグ5位)、20本塁打、95打点でカムバック賞と両リーグでのベストナインに輝く。
人気野球ゲーム『実況パワフルプロ野球10』の03年7月発売時には「ミート4、パワー95」だったのが、シーズン終了後の12月に出た『超決定版』では「ミート6、パワー136」へとデータも爆上げ。01年にイチロー、03年に松井秀喜と平成スーパースターが続々と海を渡る中、NPBを盛り上げた“スズキブランド”はイチローじゃなく、ケンだったわけだ。
翌04年は三塁を若手の岩村明憲が守ったため、鈴木は正一塁手としてプレー。打率.289、15本塁打と安定の成績を残した。35歳になった05年からは代打起用も増え、07年は腰痛の悪化もあり7月末から二軍暮らし。西武で15年、ヤクルトで5年。最後は限界まで完全燃焼し、10月4日に本拠地での現役最終試合に臨む。
8回裏に代打で登場したケンマーは、横浜3番手の横山道哉の全球直球勝負に対しファウルで粘りまくる。13球目は三塁フェンス際への小フライ、これをサード村田が捕球を見送り仕切り直すと、鈴木は15球目をセンター前へ通算1446安打目を運ぶ。一塁上でヘルメットを掲げ笑顔でスタンドに向けて挨拶した直後、37歳の男は涙を流しながらベンチへ下がった。
「20年間、精いっぱいやってきました。悔いはありません。世界一の幸せ者です」
黄金時代の西武で揉まれ、やがて4番を打ち、30代中盤にヤクルトで復活した激動の野球人生をそう振り返り、鈴木健はグラウンドを去った。
今思えば、2007年のヤクルトはチームの過渡期だった。この3日後の10月7日、同じ神宮球場で3万3027人の大観衆を集め華やかな引退試合が行われる。主役は選手兼任監督、古田敦也である。
(次回、古田敦也編に続く)
【鈴木健 97年・07年打撃成績】
97年:133試合 打率.312 19本塁打 94打点 OPS.949
※最高出塁率(.431)とベストナインを獲得
07年:26試合 打率.111 0本塁打 2打点 OPS.421
※引退試合は代打で出場。15球粘り中前安打を放つ
▼ 鈴木の主要部門打撃成績
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)