「ありがとう」、私のヒーロー:ヤクルト・畠山和洋
プロ野球の2019年シーズンが閉幕。今年も熱い戦いが繰り広げられたなか、多くの名選手たちがユニフォームを脱ぐ決断を下した。
秋といえば、野球界にとって出会いと別れの季節。球界の明日を担う金の卵たちがドラフト会議で大きな注目を浴びながらプロへの門を叩く一方、チームを去る選手がいることも事実だ。
かつては大きな期待を背にプロの世界へと飛び込んだ選手たちも、いずれはユニフォームを脱ぐことになる。今回は、今季限りで現役引退を決断した選手たちにスポットを当てて、彼らを長く見守ってきた方々にペンを執っていただき、それぞれの思い出とともに引退する選手のキャリアを振り返ってもらった。
文=長谷川晶一(ライター)
記録にも、記憶にも残る名選手
畠山和洋が19年にわたる現役生活にピリオドを打った。2015年(平成27年)には打点王を獲得し、チーム14年ぶりの優勝に大きく貢献。個性的なバッティングフォームと愛嬌のあるキャラクターで、東京ヤクルトスワローズの人気選手として活躍した。記録にも、記憶にも残る名選手だった。
しかし、彼の野球人生は決して順風満帆だったわけではない。プロ入り後、期待されながらも、なかなか結果が出ない日々が続いた。勝負強いバッティングと日本人離れした長打力は、彼ならではの魅力だった。しかし、決して足が速いわけでもなく、特筆すべき守備力を誇っていたわけでもなく、役割が重なる外国人助っ人との競争に勝利しなければ、一軍で活躍することはできなかった。
あれは、08年オフのことだった。このとき畠山は、プロ8年目のシーズンを終えたばかり、26歳の若者だった。この年、外国人助っ人であるアダム・リグスの故障もあって、畠山にチャンスが与えられ、彼はそのチャンスを見事にモノにした。当時のキャリアハイとなる121試合に出場し、4番打者として1年間を乗り切った。打率、本塁打、打点、いずれも自己ベストを大きく更新。充実したシーズンオフを迎えているはずだった。しかし、インタビュー現場に現れた畠山の表情は冴えなかった。このとき、彼はこんな言葉を残している。
「いくら活躍しても、ずっと試合に出られる保証はないですから……」
あれから十数年が経過したにもかかわらず、このときの畠山の暗い表情と物静かな発言は、今でもありありと焼きついている。さらに彼はこんな言葉も口にした。
「来年、僕が4番を打っている確率はかなり低いと思うんです……」
このとき僕は、「彼はネガティブ思考の持ち主なのかな?」と、内心で考えていた。しかし、どうやらそうではないということはすぐに気がついた。畠山には冷静に現状分析ができる客観性が備わっていた。彼の話は理知的だった。豪快なバッティングとは裏腹に、繊細さが垣間見える発言が続いた。このとき畠山は、こんな言葉も残している。
「正直言って、他球団でのプレーを考えたこともありました……」
ヤクルトひと筋19年。名実ともにチームを代表する顔のままユニフォームを脱ぐ畠山だが、今から十数年前、彼にとっての蒼き日々は苦悩の連続だった――。
外国人選手たちとの過酷なレギュラー争い
改めて、畠山和洋の野球人生を振り返ってみたい。専修大学北上高校時代に甲子園に出場した畠山は2000年ドラフト会議5巡目でヤクルトに入団。プロ2年目となる02年にはファームで本塁打王、打点王の二冠に輝いて注目を浴びた。しかし、その後は一軍と二軍を行ったり来たりの日々が続いた。前述したように、誰にも真似のできないパンチ力は魅力的だったが、守備や走塁面においてはまだまだ課題が多かった。この頃のことを本人が振り返る。
「チーム内部のことは僕にはわからないですけど、きっと、“他球団でプレーを”という話は出ていたんじゃないですか? 正直言って、僕自身も“スワローズだけがチームじゃない”という思いを持ったことはあります。確かに、それまで僕は成績を残していなかったのは事実です。でも、チャンスらしいチャンスをもらったという記憶もありませんでした。だから、“もっと評価してくれるチームへ”という思いを持ったことも事実でした」
結果的にヤクルトひと筋19年となった畠山だが、必ずしも平坦な道のりを歩んだわけではなかったのだ。この頃、公私にわたって彼の指導をしたのが、当時ヤクルトの二軍守備・走塁コーチだった猿渡寛茂だった。
「彼がプロ3年目の03年に僕はファームのコーチになりました。この頃の畠山は、若いのに身体が絞れていなかった。だから、徹底的に走らせましたよ。その成果はすぐに出ましたね。身体にキレが出てきて飛距離はさらに伸びたし、身のこなしも軽くなって守備もうまくなっていったしね」(猿渡)
転機となったのは08年のことだった。前年まで二軍監督として畠山を間近に見ていた小川淳司が一軍ヘッドコーチとなったことで、「チャンスらしいチャンスをもらったことがなかった」と語る畠山に初めてのチャンスが訪れる。リグスの故障を受けて、小川ヘッドが真っ先に指名したのが畠山だった。4月15日に初スタメンで起用されると、いきなり初ホームランを放ち、以降もコンスタントに打ち続けた。それでも、畠山に笑顔はなかった。
「スタメンで出た最初の試合で、確かにホームランは打ったけれど、だからと言って、次の日も試合に出られるかというと、自分の中で“?”だったし、全然安心感はなかったです」
この言葉に象徴されるように、08年以降もデントナ、ホワイトセルら、外国人選手とのし烈なポジション争いはずっと続いた。畠山の野球人生は、常に危機感と背中合わせの過酷なものだったのだ。
若き才能を開花させる新たな役割
過酷なポジション争いの一方、故障にも悩まされた。腰も脚も、下半身は満身創痍だったという。それでも、畠山はヤクルトの中心選手として存在感を誇った。15年のリーグ優勝の際には「頼れる4番」として打点を量産。名実ともにチームの大黒柱へと成長した。若い頃から畠山を指導し、このときSD(シニアディレクター)という立場だった小川淳司前監督が当時を振り返る。
「そりゃあ、嬉しかったですよ。畠山が苦労してきたのは間近で見ていましたから。若い頃はいわゆる《罰走》ばかりで、常に走らされていました(笑)。生活習慣から叩き直して、一軍で活躍するようになって、優勝に貢献する選手になったんですから、そりゃあ、嬉しかったですよ」
同じく、若い頃から畠山とともに寝食を共にしてきた猿渡も口をそろえる。
「優勝した年の畠山は本当に頼りになったよね。若い頃から勝負強かったけど、15年は本当のプロ野球選手になった。そんな気がしたものだよね」
しかし、15年以降は故障の連続だった。16年には背中を痛め、左有鈎骨を故障し、アキレス腱の状態も悪化していた。翌17年はふくらはぎの故障に悩まされながら調整を続けたものの、今シーズンを最後に畠山はユニフォームを脱ぐことを決意する。現役晩年はケガとの闘い、満身創痍の中でのプレーだった。そして、来年からはヤクルトの二軍打撃コーチとして、後輩たちの指導に当たることが決まっている。
若い頃は、「練習嫌い」のレッテルを貼られたこともある。プロ入り後、数年間は結果が出ずに苦しんだこともある。せっかくレギュラーポジションをつかんだと思っても、常に新外国人との競争を余儀なくされた。晩年には故障と闘いながら泥にまみれた。こうした19年間の経験のすべてが、「指導者・畠山」の血となり、肉となっていることだろう。球団事務所で行われた引退会見では、次のようなコメントを発している。
「練習をたくさんすることが正解だと思ったことはない。常に効率よくやってきたつもり。今度はその経験を伝えたい気持ちはある」
今季一軍で活躍した村上宗隆、廣岡大志に続く若き逸材はたくさんいる。塩見泰隆、中山翔太、渡邉大樹、濱田太貴……。畠山の指導によって、新たに才能が開花するのは誰だろう? 第二のステージを歩み始めた畠山和洋の新たな旅立ちを心から応援したい――。