『男たちの挽歌』第12幕:清原和博
打率.304、31本塁打、78打点。
かつてこの素晴らしい打撃成績を残した高卒1年目のスラッガーがいた。1986年(昭和61年)の清原和博である。
新人タイ記録の31発、さらにオールスター戦でもホームランを放ちMVPに。広島との日本シリーズでは西武の4番を打ち、チーム最高打率.355をマークして優秀選手賞を獲得した。PL学園時代に甲子園で歴代最多の13本塁打と高校野球界の伝説になった男は、そのわずか1年後にプロの世界でも変わらず規格外のスーパースターであり続けたわけだ。
『清原和博 怪物伝説』というDVDでキャリアのほぼ全本塁打を確認できるが、いま見てもデビュー直後の選ばれし者の恍惚と不安の中でプレーする、背番号3は誰よりもキラキラしている。当時、自分は埼玉の田舎町に住む小学生で、ちょうどプロ野球に興味を持ち始めた頃だった。
何の知識もなく、当たり前のように18歳の新人類がプロの投手からホームランを打つのをテレビ埼玉のライオンズアワーで見ていたが、それがどれだけ凄いことかあまり理解できていなかった。学校や駅に行けば、西武の試合結果を報じる新聞社の壁貼りニュースがあり、多くの同級生は「巨人は東京の憧れのチーム、西武は地元のチーム」という感覚だったと思う。
夏のプール教室で男子の8割は、YGマークの黒いキャップかレオマークの青い野球帽だ。みんな清原が好きだった。ちなみにゴールデンルーキーの入団で、西武の観客動員数は前年の140万9000人から、86年は166万2000人と大幅アップしている。
「背番号3」=清原和博
少年たちは、なぜキヨマーに夢中になったのか? それは清原が18歳だったからだ。子どもにとって30代は恐ろしくおっさんに見えるし、20代でも軽くおじさんだ。でも、清原はまだあどけなさの残る10代だった。自分たちと歳の近い10代だった。大人の世界で戦う“史上最強の18歳”は狂おしいほど格好良かった。俺らの代表みたいな感覚すらあった気がする。80年前後生まれの世代にとって、「背番号3」と言えば長嶋茂雄ではなく、清原和博なのである。
2年目の87年日本シリーズでは、ドラフト会議で指名してもらえなかった王貞治率いる巨人に対し、あとひとりで日本一という場面でファーストを守る20歳は涙を流す。清原の魅力は「男気」なんかじゃなく、「情念」だと思う。80年代の彼は最高の野球選手であり、完璧なアイドルだった。
西武ライオンズは黄金時代を迎え、清原はプロ4年目の89年に史上最年少の21歳9カ月で100号本塁打を達成(92年の24歳10カ月で200号本塁打も史上最年少記録)。90年の西武は2位オリックスに12ゲーム差をつけ独走優勝。日本シリーズでも巨人を4連勝で下し圧倒的な強さを見せつけたが、キヨマーはそのど真ん中で4番を打ち、打率.307、37本塁打、94打点、OPS.1.069という堂々たる成績を残す。あの頃、背番号3は球界の未来そのものだった。
昭和から平成の時代の変わり目、新元号のミスタープロ野球を託され、王の868本超えを期待され、偶然にもヘルメットは野村克也が西武時代に使用していたものを受け継いだ(引退まで色を塗り替え使用)。
だが、そのデビューからの数年の輝きがあまりに強烈で、90年代の清原は自身の過去の幻影との戦いのような雰囲気すらあった。野茂英雄(近鉄)や伊良部秀輝(ロッテ)との対決は“平成の名勝負”と言われたが、打撃三部門のタイトルには無縁で、「無冠の帝王」と呼ばれるようになる(ただし最高出塁率を2度、最多勝利打点は1度受賞している)。
ヒーローから番長へ
そして、96年オフに子どもの頃から死にたいくらいに憧れた巨人へFA移籍するわけだが、97年の長嶋巨人は4位に終わり、マスコミからA級戦犯と叩かれ、東京ドームではファンの応援ボイコットもあった。だが、今にして思えば巨人1年目の清原は32本塁打、95打点という成績を残している。
現代のFA移籍なら充分合格点の数字でも、当時の巨人4番は優勝請負人を託された。そんな凄まじい期待とプレッシャーの中で、背番号5はあがき続ける。毎年のように怪我に苦しむが、肉体改造をして臨んだ01年にはキャリアハイの121打点を挙げ、04年には通算2000安打を達成するも、気が付けばヒーローの“キヨマー”ではなく強面の“番長”と呼ばれていた。
04年オフには構想外からの退団騒動もあったが、部外者から通告されたことに怒った清原の球団事務所での直談判もありチームに残留(4年契約はあと1年残っていた)。しかしすでに球団や首脳陣との関係も悪化。05年8月には7番に打順下げられ、22号アーチを放つもベンチ前でのハイタッチ拒否事件を起こし、これが巨人在籍時の最後の一発となった。
この頃、日焼けした坊主頭にダイヤのピアスという風貌が話題だったが、両太もも痛や肉離れにも悩まされ、03年10月には右膝を手術、05年8月には左膝の半月板除去手術と下半身は筋肉で巨大化する肉体を支えきれなくなっていた。
05年秋に巨人から戦力外通告を受けると、自身3球団目は仰木彬氏からの強い誘いもあり、オリックスへ。06年は横浜のクルーンからのサヨナラ逆転満塁ホームランや、古巣・西武戦での野村克也の持つプロ野球記録を塗り替える自身12本目のサヨナラアーチで21年連続二桁本塁打を達成するが、故障もあり67試合の出場でチームは5位と低迷。結果的にこの年の9月2日ロッテ戦で清水直行から放った、京セラドームのバックスクリーンにぶち当てる豪快な第11号本塁打が現役ラストアーチとなった。
翌07年2月に左膝の軟骨除去手術、7月にも3度左膝にメスを入れる。オリックスはテリー・コリンズを監督に迎えるが最下位に沈み、清原はプロ入り以来初めて出場なしに終わった。満身創痍の40歳の肉体。テレビで見るプロ野球がやけに骨身にしみる。リハビリ中に背番号5はフジテレビのスポーツニュースの取材を受け、遠い目でこう語る。
「車でバーッと湾岸線を走って、自分の実家の方、自分のルーツを車で辿ってね。チャリで走った所を自分の夢で掴んだ車で走ると、この道こんな狭かったかなあと思うわ。でもちょうど桜が咲いてて、街の匂いを感じながら、もうちょっと頑張ってみようってな……」
球史に残るスラッガーの最後と花道
そして、2008年に清原和博は現役生活の「最後の1年」を迎えるわけだ。プロ23年目のシーズンは、必死の調整が続き、8月2日午前に緊急記者会見。2年ぶりの一軍昇格と同時に、「明日からの1打席、1球が自分の野球人生の最後だと思っています」と現役引退を示唆する。
翌3日のソフトバンク戦で代打として695日ぶりの一軍の打席に立ち、空振り三振を喫するも本拠地のファンからは大きな拍手が送られた。4日に復帰初安打をセンター前に放ったが、41歳の誕生日の8月18日に正式に今季限りでの引退を表明。
8月29日、西武ドームでの古巣とのラストマッチを迎える。ともに西武黄金時代を支えた渡辺久信監督から花束を手渡され、涙を浮かべる背番号5は、オリックスと西武の両チームのナインから胴上げをされた。この時期、オリックスも好調だった。5月に辞任したコリンズ監督はシルク姉さんとのスキャンダル以外に目立った活躍はなかったが、大石大二郎監督代行のもと清原効果もあり、チームは2位に躍進する。
個人成績は打率1割台に本塁打0。スイングを見てもすでに限界を迎えているのに、ファンは背番号5が打席に立つとこれまでのように奇跡を期待してしまう。偉大な選手ほど、過去の全盛期の幻影に苦しめられ、やがてその過去をリスペクトされるようになる。
そして、10月1日。プロ通算2338試合目の引退試合に臨む。イチローや金本知憲、さらに西武時代の打撃コーチ土井正博も京セラドームのスタンドに駆け付け、ゲーム前にソフトバンクの王貞治監督から「来世生まれ変わったら必ず同じチームでホームラン競争をしよう」と花束を手渡される。
「4番DH」で先発出場すると、第3打席に杉内俊哉から右中間を破るタイムリー二塁打。代名詞ともいえる芸術的な右打ちだった。最後のプロ通算9428打席目は、高めの直球を空振り三振。ヘルメットを取り、マウンドに向かって頭を下げる41歳のキヨマー。試合後のセレモニーでは、長渕剛が『とんぼ』を生熱唱し、背番号5は最後の挨拶に臨む。
「このユニフォームを着させてくれた天国の仰木監督、今日はイチローもシーズン終えてすぐ来てくれました。ありがとうございます。本当に大阪、そしてオリックスのユニフォームを着たことを誇りに思い、今日引退させていただきます。全国のプロ野球ファンの皆さん、23年間、応援どうもありがとうございました!」
通算1530打点は長嶋茂雄の1522打点を上回り歴代6位、通算525本塁打は落合博満の510本を超え歴代5位である。なお通算1955三振、196死球はNPB歴代1位だ。清原和博は、三振や死球を恐れず500本以上のホームランを放った球史に残るスラッガーだった。
この年の夏、7月29日。無観客の神戸スカイマークスタジアムで清原の打撃投手を務めた男がいた。そう、“KKコンビ”の盟友・桑田真澄である。
(次回、桑田真澄編に続く)
文=中溝康隆(なかみぞ・やすたか)