記念球をライトスタンドへ
2005年4月24日――。15年前、ヤクルトスワローズの古田敦也が金字塔を打ち立てたのがこの日、松山・坊っちゃんスタジアムでの広島カープ戦だ。史上32人目となる2000安打達成。当時、大学・社会人を経由してプロ入りした選手としては初めてのことだった。
歓喜の瞬間。松山に詰めかけた大勢のツバメ党から拍手を浴び、ベンチからはチームメイトが続々と古田のもとへ向かっていく。対戦相手であるカープの選手やファンからも祝福を受け、敵も味方も関係なかった。
2000安打の記念球にはサインを入れ、「皆さん喜んでくれるかなと思って投げました」と、この日ライトスタンドに陣取ったファンに向かって投げ入れた。
古田は試合後のインタビューで「皆さんが僕のことのように本当に喜んでくれているので、僕もすごく嬉しい気分になりました」とコメント。“燕の要”としてチームを引っ張ってきたプロ16年目の男は、試合中の真剣な表情とは打って変わり、快挙達成に笑顔があふれた。
恩師である野村監督との共通点
兵庫の川西明峰高から立命館大に進学し、トヨタ自動車を経て89年ドラフト2位でヤクルトに入団した古田。捕手としての2000安打は、プロ入り当時からの監督である野村克也氏以来2人目の記録となった。
野村氏が掲げた「ID野球」の申し子とまで呼ばれた古田は、ヤクルトには欠かすことのできない存在に成長。90年代の黄金期を支え、攻守にわたって長くチームをけん引し続けたのは言うまでもない。
また、04年の近鉄・オリックスの合併に端を発した球界再編問題では、グラウンド外で奔走した。古田は日本プロ野球選手会の会長として12球団維持に尽力し、多くのプロ野球ファンの支持を集めた。今季は残念ながら中止となってしまったが、「交流戦」(05年開始)がスタートするきっかけもつくった。
再びユニフォームを着ることは…
今年の2月には悲しい知らせがあった。“師匠”である野村氏が「虚血性心不全」のために亡くなった。
昨年の7月には球団設立50周年を記念した「スワローズ・ドリームゲーム」が行われ、スワローズの歴史を彩ったレジェンドたちが神宮球場に集結。古田は「GOLDEN 90’s」のヘッドコーチとして、野村監督とコンビを組んだ。
試合後に古田は「これだけお客さんが入って喜んでいただけたら、また5年後・10年後やるんじゃないですか」と語ったが、野村・古田の師弟コンビのユニフォーム姿は、これが最後となってしまった。
文=別府勉(べっぷ・つとむ)