背番号は選手の顔
8月31日、ソフトバンクが育成左腕の渡邉雄大投手と支配下契約を結んだことを発表。3ケタの背番号140から新たな「48」のユニフォームを勝ち取り、気持ちを新たに意気込みを語った。
例年であれば7月いっぱいが新規支配下登録の期限となるが、今季は開幕が3カ月遅れたこともあり、特例として9月末までは育成から支配下への昇格も認められている。
今季は開幕直前に昇格したロッテの和田康士朗がパ・リーグ盗塁ランキングのトップを快走しているのをはじめ、中日ではアリエル・マルティネスやヤリエル・ロドリゲスといった助っ人勢が一軍のチームで存在感を発揮。ほかにも、自由契約から育成契約を経て這い上がった巨人の田中豊樹など、多くの支配下昇格選手が良い活躍を見せている。
特にチームのピンチに“緊急昇格”した選手にありがちなのが、「ユニフォーム」にまつわる問題だ。
今季も日本ハムの髙濱祐仁が7月8日に支配下登録選手として公示を受けると、翌日のオリックス戦から一軍戦に出場。背番号は「97」になることが発表されていたのだが、故障者発生を受けての緊急昇格だったこともあり、新しいユニフォームが間に合わず。育成時代の背番号「162」のまま一軍戦に出場するという珍事が起こった。
その直後には、巨人の田中豊樹も同様のケースで3ケタの背番号「018」のまま一軍戦に出場。短期間で2件つづいたこともあって話題になったのだが、過去にはこうした理由以外で、登録とは違ったユニフォームで試合に出場した選手もいた。
宇野勝は背番号「77」でハッスル
一番多いパターンが、「ユニフォームを忘れてきた」というケース。これは中日時代の宇野勝のエピソードが有名だ。
1981年4月24日の大洋戦。横浜スタジアム入りした宇野は、うっかり名古屋に自分のユニホームを忘れてきたことに気づき、「さあ、どうしよう…?」。
仕方なく、大洋側の了承を取りつけたうえで、ほぼ同サイズだった飯田幸夫コーチの77番のユニホームを拝借。「7番・遊撃」で試合に出場した。
本来は背番号7の宇野が、その「7」を2つも背負って登場したので、当然のように大洋ベンチから情け容赦なく野次が浴びせられる。
ふつうの選手だったら委縮してもおかしくないところだが、さすがは宇野。2-1とリードした4回の第2打席に豪快な中越えソロ。7回の第4打席にも右前安打を放ち、ダメ押し点につなげた。
結果的に「7」がひとつ増えた分、2人前の働きをして「これでチョンボの帳消しはできた」とニンマリした宇野だったが、それから4カ月後の巨人戦で、遊飛をおでこに当てるという伝説の“ヘディング事件”を起こす。
1シーズンに2度も伝説級のチョンボを連発して以来、「珍プレー」は宇野の代名詞になった。
なぜか中日の選手はよく忘れる?
中日といえば、2005年9月27日の横浜戦で井端弘和が、2009年5月30日のソフトバンク戦ではトニ・ブランコが、さらに2010年3月7日のオープン戦・オリックス戦で高橋聡文が、そして2016年7月5日の広島戦では藤井淳志がユニホームを忘れ、いずれもブルペン捕手・三輪敬司のユニホームを借りて試合に出場している。
さらに前記の広島戦では、ダヤン・ビシエドもユニホームを忘れたため、もう一人のブルペン捕手・中野栄一の103番のユニホームで試合に出場。もし藤井が試合に出ていれば、100番台の選手が2人という珍事になるところだったが、藤井は出番なしで終わっている。
それにしても、同じチームで次から次へとこの手の話が出てくるのは、宇野以来の伝統か…?
ちなみに、ブランコはオリックス時代の2015年7月13日・ロッテ戦でも、ユニフォームをほっともっと神戸に忘れてきたため、ディクソンの「32」で試合に出場。
球団スタッフが大急ぎで取りに行き、京セラドーム大阪まで届けてくれたこともあって、2打席目から通常の「42」に戻るという珍事もあった。
ダルビッシュ有はピチピチの…
サイズの合わないユニフォームを身にまとい、腕を突っ張らせながらも力投を演じたのが、日本ハム時代のダルビッシュ有だ。
45年ぶりの球団タイ記録、チームの11連勝がかかった2006年7月7日の西武戦。先発したダルビッシュの背中には、球団記録と「11」ではなく、なぜか「29」の文字が…。
実は、移動の前日、ロッカールームで荷造りをしている際に、ビジター用のユニフォームがしわくちゃになっていることが気になり、ハンガーにかけて皺を取ろうとした…までは良かったが、そのままバッグに詰め忘れてしまったのだという。
仕方なく、ルーキー・八木智哉のユニフォームを借りてマウンドへ。身長差が14センチもあるため、腕を振るとノースリーブのようになってしまう。
それでも、そんなハンデ(?)も乗り越え、7回を4安打、自責点ゼロの好投。見事11連勝の立役者となった。
“現役最後”の一軍登板が…
本人の責任ではないのに、借り物のユニフォームで登板する羽目になったのが、楽天時代の梅津智弘だ。
広島を戦力外になり、楽天と育成契約した梅津。2015年7月31日に支配下登録を受け、背番号も「139」から「92」に変更。新しいクリムゾンレッドのユニフォームも、本人のオフィシャルブログで公開されていた。
ところが、一軍に昇格した時期が悪かった。夏季限定「TOHOKU GREEN」のユニフォームを着用するシリーズだったため、この限定ユニは間に合わず…。8月5日の西武戦は、体格がほぼ同じだったケニー・レイのユニフォームを借りて登板した。
背番号「12」の初登板は9回、4番手として登場も、先頭の秋山翔吾に一発を浴びるなど3失点。結局、この1試合だけで再び戦力外となり、「RAY」のユニフォーム姿が一軍での現役最後のマウンドとなった。
隣のロッカーのユニフォームで…
最後は、「ユニフォームを忘れたわけではない」という超レアケース。なんと、うっかり他人のユニフォームで試合に出場してしまったのが、ダイエー時代の田口昌徳だ。
2002年、正捕手・城島健司の負傷離脱に伴い、緊急トレードで日本ハムから移籍してきた田口。6月29日の近鉄戦は、4回の守備から途中出場となる。
7回、一死二塁のピンチを迎えた直後、球審に何事か注意された田口は、突然持ち場を離れて走り出すと、ベンチ奥へと消えていった。よく見ると、田口の背中は本来の「57」ではなく、リリーフエース・渡辺正和の「28」ではないか…?
「隣のロッカーが渡辺さんなんですよ。イニングの合間に着替えるときに間違えたみたいで…」。
この大爆笑の珍事は、同年の「勇者のスタジアム・プロ野球好珍プレー」で珍プレー大賞にも輝いている。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)