来年のパ盗塁王争いは超ハイレベル!?
例年よりも3カ月遅れてスタートしたプロ野球の2020年シーズンも、ついに最後の大一番・日本シリーズに突入。ソフトバンクのキーマンとして注目を集めているのが、今季「1番」に定着した周東佑京だ。
ちょうど1年前の今頃、『プレミア12』に挑んだ侍ジャパンのメンバーに抜擢されると、持ち前の快足でチームの勝利に貢献。チームを世界一に導く原動力となり、一躍その名を日本中に轟かせた。
そんなこともあって、今季は例年以上に期待と注目が集まる中ではじまったシーズン。開幕当初は前年と同じく“代走の切り札”という役割がメインだったものの、シーズン途中から徐々にスタメン出場の機会を増やし、9月の半ばには「1番」に定着していく。
規定打席には届かなかったが、最終的には103試合の出場で打率.270をマーク。120試合制の短縮シーズンながら年間50盗塁を記録して、自身初のタイトルも手中に収めている。
シーズン中には、盗塁王争いの常連である日本ハム・西川遥輝との熾烈な争いも話題になったが、10月に入って「13試合連続盗塁」の記録を作るなど、周東が一気にペースアップ。
さらに今年は、ロッテに昨年の周東を彷彿とさせるような育成出身の韋駄天・和田康士朗という選手が台頭してきており、来年には日本ハムに「サニブラウンに勝った男」として知名度を上げた中央大・五十幡亮汰も入団してくる。若い才能、スピードスター候補が集まるパ・リーグの盗塁王争いが、今から楽しみだ。
そこで今回は、過去のプロ野球の歴史のなかから、ファンの記憶に残る「盗塁王争い」をピックアップ。ここでは3つの名勝負を紹介したい。
1981年の名勝負「青木実と青い稲妻」
1970年代から80年代にかけて、近鉄・藤瀬史朗とともに“足のスペシャリスト”として活躍。ワンチャンスをモノにして盗塁王を獲得したのが、ヤクルトの青木実だ。
一軍初出場の1976年から、5年続けて打率は1割台以下。打力が弱かったため、代走や守備固めでの出番が多く、盗塁も1978年の「15」というのが最多だったが、1981年に大きなチャンスが巡ってくる。
シーズン開幕直後から外野手のジョン・スコット、若松勉が相次いで故障で離脱。このチームのピンチを受けて、青木は5月末から「1番・センター」に定着。8月下旬まで打率3割台をキープし、盗塁数もキャリアハイを更新していく。
10月2日の大洋戦では続けざまに二盗、三盗を決め、自身初の「30」に到達。ついに巨人の“青い稲妻”松本匡史と並んだ。
10月3日からは巨人との直接対決3連戦。いずれも代走で出場した青木は3盗塁を決めて「33」とし、1盗塁に終わった松本に2差をつけた。両チームともに残り2試合、ほぼ勝負あったかに思われた。
「ここまで来たら、何が何でも獲りたいですよ。プロ入り6年目、初めてのチャンスですから」と逃げ切りを図った青木だったが、敵もさるもの、松本は10月7日の大洋戦で2盗塁を決め、一気に追いついてみせる。
そして、シーズン最終戦となった14日の広島戦、2回に釘谷肇の代走として一塁ベースに立った青木は、北別府学–水沼四郎バッテリーから執念の二盗。「34」で単独盗塁王に輝いた。
「やりました!最高の気分です」と大喜びの青木に対し、わずか1差に泣いた松本は「ウーン、残念だけど、また来年、タイトル獲りに挑戦です」と雪辱を誓う。
その言葉どおり、松本は翌年に61盗塁で初タイトルを手にしたが、青木は翌年以降出番が減少。まさに“最初で最後のチャンス”を掴んだという格好になった。
正田耕三は「1試合6盗塁」で大逆転!
日本タイの「1試合6盗塁」を記録し、大逆転で盗塁王を獲得したのが、1989年の広島・正田耕三だ。
同年のセ・リーグ盗塁王争いは、10月14日の時点でヤクルトのルーキー・笘篠賢治が「32」でトップ。2位・正田に4差をつけていた。残り試合はヤクルトが1に対し、広島が3…。ふつうに考えれば正田の逆転は難しく、プロ野球史上初の「新人盗塁王」誕生が濃厚とみられていた。
ところが、翌15日の中日戦。正田はあっと驚く大逆転劇を演じる。
初回に一ゴロが相手の失策を誘って出塁すると、2番・野村謙二郎の初球に二盗。内野安打で出塁した2回にも二盗、三盗と相次いで成功させ、一気に「1」差まで詰める。
さらに5回にも右前安打で無死一塁としたあと、野村の初球に二盗、カウント1-1からの3球目に三盗を決め、ついに笘篠を逆転した。
そして、捕手が山崎武司から中村武志に代わった7回も、一死から中前安打を放ち、野村の2球目にこの日6個目の盗塁に成功。1952年の山崎善平(名古屋)以来、実に37年ぶりという日本タイ記録だった。
「5個目のあと、広報から記録のことを聞きました。7回は捕手も(強肩の中村に)代わっていたし、アウトになってもいいやという気持ちで走った。結果オーライですよ。ほんと今日はよう走ったなあ」と話した正田。直後には三盗も試みているが、これはタッチアウトとなり、残念ながら日本新は達成ならなかった。
一方、「34」の正田を2差で追う立場になった笘篠は、10月17日の最終戦・中日戦の3回に二盗失敗。この時点で笘篠に並んでいた大洋・高木豊も、残り2試合で盗塁を記録できず、正田の初の盗塁王が確定する。
余談だが、1試合5盗塁を許した山崎は、“捕手失格”の烙印を押され、一塁手に転向。このコンバートが、後の「両リーグ本塁打王」を生み出すことになる。
盗塁封じにわざとボーク…ファン不在の“泥仕合”
盗塁王をめぐり、ファン不在の泥仕合が繰り広げられたのが、1998年10月12日のロッテ−西武戦だ。
両チームともに、この日が泣いても笑ってもシーズン最終戦。盗塁王争いは、「43」のロッテ・小坂誠を西武・松井稼頭央が1差で追っていた。
まず、松井が3回に三盗を試みて失敗。小坂も4回に三盗失敗と、前半から2人は激しい火花を散らす。
ところが、7回一死、小坂が左前安打で出塁すると、様子がおかしくなる。
マウンドの芝崎和広が故意か偶然なのか、一塁けん制を悪送球。当然ながら二進すべき場面だが、なんと、小坂は一塁コーチに制止され、一塁にとどまった。すると、芝崎は「悪送球でも進塁しないのなら」とばかりにボークを犯し、小坂は嫌でも進塁せざるを得なくなった。
小坂が二塁に進むと、今度はショートの松井が三遊間をがら空きにし、二塁ベース上に立った。「盗塁さえ阻止すれば、タイムリーを打たれてもいい」というベンチの指示のようだ。厳重な包囲網のなか、小坂は三盗を試みたが、アウトになった。
一方、松井もその裏、二死一塁から中前安打で出塁したが、「先ほどのお返し!」とばかりにショート・松本尚樹が二塁ベース上に立ち、二塁走者・和田一浩をけん制。和田を封じることによって、松井を動けなくする作戦だった。
しかし、そんな警戒網をものともせず、2人は重盗に成功。この結果、松井は土壇場で小坂と盗塁王を分け合うことができたが、ファンとしては、本塁打王や首位打者阻止の四球攻め同様、こんなタイトル争いは二度と見たくないだろう。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)