白球つれづれ2021~第32回・悲願の金メダル
東京オリンピック(五輪)における野球の日本代表チームがついに世界の頂点に立った。
1984年のロサンゼルス五輪で金メダルを獲得しているが、この時は公開競技の位置づけ。それ以降88年のソウル大会から2008年の北京大会まで6度の挑戦もキューバやアメリカの厚い壁に阻まれ続けた。さらに野球そのものが五輪から除外され、やっと13年ぶりに巡ってきた大舞台で悲願が叶った。しかも、準々決勝で延長タイブレークの末に破ったアメリカを決勝でも2-0の完封勝利。侍ジャパンの強さが際立った。
決勝の夜、勝利を見届けた侍ジャパンの王貞治特別顧問(ソフトバンク球団会長)は「野球は国技だと思っている」と語った。それは柔道や相撲と等しく、勝って当たり前の十字架を示している。稲葉篤紀監督が、勝利の瞬間に流した涙は歓喜と重責を果たした直後の解放感からくるものだったに違いない。
今大会のMVPには山田哲人選手が選ばれた。ベストナインには山本由伸投手、甲斐拓也捕手、坂本勇人遊撃手の名前が続く。5戦2勝3セーブの栗林良吏や中継ぎで好投を見せた伊藤大海、両ルーキー投手の活躍も印象深い。各人が自分の役割を熟知して、チームのために戦う。まさに「全員野球」の結実こそが指揮官の目指す姿だった。
2017年に日本代表監督に就任。それまでアマチュア主体の代表が2000年のシドニーでプロアマ合同となり、プロで一本化されたのは04年のアテネから。以来、長嶋茂雄(病に倒れ本大会は中畑清代行)、星野仙一両監督というビッグネームの後を継いだ。五輪には縁のなかった原辰徳、小久保裕紀両侍ジャパン監督らの思いも引き継いでいる。
指導者実績なしからのスタート
就任当初から、監督としての指導者実績がない(※日本代表の打撃コーチは経験)。代表のトップとしては地味過ぎる、といった不安視する声も一部にあったが、結果を残すことで信頼を勝ち取ってきた。
稲葉監督の恩師と言えば、ヤクルト時代の野村克也氏である。プロ入り自体、野村氏が愛息・克則現楽天コーチの在籍する明大応援のため神宮に訪れ、対戦相手である法大・稲葉の打撃に目を止めたから。ドラフト当日、野村監督が「法大の左打者はどうした?」と語ったことで3位指名が決まったという有名な逸話がある。
当然、野村流「ID野球」を叩き込まれているから、データ分析に力を入れる。接戦の時に1点を取り、1点をやらない緻密さが代走、バントといったスペシャリストの抜擢につながっている。加えて、就任時は45歳の若さ。選手との距離感の近さが選手との対話路線に役立った。
主将不在のチームは誰かに頼ることなく全員で戦う集団を促し、ブルペンにコーチを配置することもなく、山﨑康晃投手らがまとめた。
優勝から一夜明けての会見で、指揮官は青柳晃洋投手の名前を挙げている。
「日頃とは違う中継ぎに使って、苦しい立場にしてしまった」。今大会で2試合に起用されたがいずれも打ち込まれて防御率は「27.00」。最も苦しんだ阪神のエースを気遣う心に、青柳も気持ちで応える。期間中、49歳の誕生日を迎えた監督に「ハッピーバースデー、トゥユー」と、大声で歌ったという。
それでいて、この大会で本来の力を発揮できなかった青柳をはじめ、田中将大、平良海馬投手らにその後の出番はなかった。優しさと勝負に徹する厳しさを発揮してつかみ取った金メダルだった。
選手本位で勝ち取った信頼と結果
2019年の「プレミア12」で活躍して今大会も選出されたが故障のため、辞退に追い込まれた広島・會澤翼捕手が稲葉ジャパンの強みを語っている。「プレミア」で台湾との移動の際に、選手たちをビジネスクラスに座らせて、監督とコーチはエコノミー席についたと言う。
「あれは誰にでも出来る事じゃない。僕以外の選手もグッと来たと思う」(8月8日付日刊スポーツより)
カリスマ監督が威厳を保つなら、選手本位の目線で最大限の能力を引き出すのが稲葉監督の「人間力野球」の神髄なのかもしれない。
金メダル監督の称号を手に入れた稲葉監督もこの五輪で侍ジャパンの指揮官を退任。早くも次期日本ハム監督就任がささやかれている。10年に及ぶ栗山英樹監督の長期政権も今季は前半戦を最下位で折り返し、苦戦が続いている。現役引退後も日本ハムのSCO(スポーツ・コミュニティー・オフィサー)として貢献してきた稲葉監督と球団との関係は良好。23年には新球場移転を控えるだけに、目玉人事ともなるだろう。
真偽のほどはさておき、監督・稲葉篤紀の評価は五輪の金メダルで跳ね上がったのは言うまでもない。喜びも束の間、早くも次なる戦いが始まりそうだ。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)