小川に続いて乙坂もメキシコへ
日本が12球団一斉キャンプインの“球春到来”に沸いた2月1日、海の向こうから日本人選手入団のニュースが届いた。
昨年までDeNAでプレーしていた乙坂智選手(28)が、メキシコ球界入りすることが決まったという。
その移籍先は、首都メキシコシティをホームとするディアブロスロッホス(レッドデビルス)。
メキシカンリーグ97年の歴史の中で、最多となる16回の優勝を誇る名門チームである。
常にメキシコ球界を牽引してきたこのチームには、過去にも日本のファンになじみのある選手も多数プレーしてきた。
「野球戦争」の主役、ホルヘ・パスケルの夢
まずはこのチームの歴史から紹介していきたい。
メキシコのプロ野球=メキシカンリーグがスポーツライターのアレハンドロ・アギラール・レイエスの尽力により発足したのは1925年のことというから、現在の日本のプロ野球=NPBよりその歴史は古い。
交通インフラの発達していなかった当時、広大な国土全域に展開することは難しく、メキシコシティ周辺のクラブチームが週末に試合興行をするセミプロリーグに近いものだった。
これが全国リーグへの道を歩み始めたのは1930年代終わりごろのこと。このリーグをメジャーリーグに匹敵するものに変えたのが、ビジネスマンのホルヘ・パスケルである。
故郷の港町・ベラクルスの米軍による空爆を経験した彼は、1940年に首都メキシコシティにその故郷の名を冠したベラクルス・アスレス(ブルース)を設立。カラーバリアのため、メジャーリーグから締め出されていたニグロリーグ(※現在いくつかのリーグは「メジャーリーグ」認定がなされている)のアメリカ人やキューバ人選手を集め、リーグ参入初年度に早速優勝を果たすと、同年にレイエスとともにリーグ創設に奔走したエルネスト・カルモナによって創立されたライバルチームのロッホス(レッズ)も買収する。
その強さからロッホスはやがて「赤い悪魔」と名乗るようになるが、両球団を擁し1946年にリーグ会長に就任したパスケルは、メキシカンリーグを「第三のメジャーリーグ」に仕立て上げるために、北米からの選手の引き抜きを行う。
この「野球戦争」と俗に呼ばれるMLBとの争いはパスケルの敗北に終わり、1955年にメキシカンリーグはMLB傘下のマイナーリーグ組織であるオーガナイズド・ベースボールに組み入れられてしまった。
「メヒコ」と呼ばれた黄金時代
ディアブロスロッホスがメキシカンリーグを代表するチームとなるのは、パスケルが野球ビジネスから撤退した1952年の後のことである。
初優勝は1956年。以後1960年代に2回、70年代に3回、80年代には4度と、リーグ参加チームの半数ほどが進出できるポストシーズン制の中にあっても、常に優勝争いの主役を演じる強豪チームとなった。
ファンたちはやがて、首都に同じスタジアムを共有するライバルのティグレス(タイガース)があるにもかかわらず、いやそれゆえなのか、このチームを「ディアブロス」でも「ロッホス」でもなく、このチームを「メヒコ(メキシコ)」と呼ぶようになった。
90年代も黄金時代は続いた。
メキシコ野球史上最高のショートストップとも言われるホセ・ルイス・サンドバルや、近鉄時代(1991~1992)に2年連続で2ケタホームランを放ったジェシー・リードを擁する打線は破壊力抜群。
加えてメジャーや阪神(2000)でも活躍した軟投派左腕のロベルト・ラミレスや、のちに巨人(1999)からメジャーに復帰し、2年連続で2ケタ勝利を挙げたエルマー・デセンス、西武(2001)でもプレーしたミゲル・デル・トロらの強力な投手陣をもって、ぶっちぎりで南地区優勝を飾る(※メキシカンリーグは地区別に分かれ事実上の2リーグ制を敷いている)。
こうして迎えた頂上決戦、“北の雄”と呼ばれたモンテレイ・スルタネスとの「黄金対決」を制した1994年のメキシコシリーズは、今も語り草になっている。
翌1995年シーズンも、のちメキシカンリーグ通算最多本塁打記録を打ち立てるネルソン・バレラと、1992年に47本塁打を放つと日本球界に引き抜かれ、オリックスで「恐怖の1番打者」としてライバル球団から恐れられたタイゲイニーという2人のベテランスラッガーを呼び戻し、80勝33敗という高勝率で南地区を制覇。
しかし、最終的には北地区2位から勝ち上がってきたモンテレイに覇権は奪われてしまう。この後も両チームは、メキシコ球界の永遠のライバルとして名勝負を繰り広げていくことになる。
日本にゆかりのある選手たち
人気・実力ともメキシコトップクラスの球団とあって、所属した選手の中には日本でプレーした選手も数多くいる。
ヤクルトの1997年の優勝に貢献したジム・テータムは、メジャー復帰後、2000年にディアブロスでプレー。
韓国球界にも挑戦したが、この年限りで現役を退いている。
そのテータムの後、ヤクルトの主砲として活躍したベネズエラ出身のロベルト・ペタジーニもまた、移籍先の巨人を退団後、マイナー生活を経て、2006年に一旦引退。
1年のブランクを置いた2008年にディアブロスで現役復帰し、韓国球界を経由して、2010年にソフトバンクで日本球界復帰を果たしている。
同じくベネズエラン選手では、阪神で2005年から2007年までプレーした速球派右腕ダーウィン・クビアンも。
実に9カ国でプレーしたジャーニーマンだが、日本を去った後に2008年から2年間ディアブロスでプレーしている。
その阪神出身のメジャーリーガーで、のち日本球界に復帰し、2006年の日本ハム日本一の立役者となったのが“ビッグボス”こと新庄剛志。
新庄と日本ハムでチームメイトだったパナマ人ユーティリティプレーヤーのホセ・マシーアスも日本を離れた後、メキシコシティをプレー先に選んだ。
2000年代初頭にはMLBでレギュラーも務め、台湾球界を経て2010年に横浜(現・DeNA)でプレーしたベネズエラ人の内野手ホセ・カスティーヨは翌年、ディアブロスで開幕を迎えた。
それでも、そのシーズンの途中に日本からお呼びがかかり、ロッテでNPB復帰を果たしている。
メキシコ代表チームのメンバーでは、2006年の第1回WBCに参加したルイス・ガルシアの名前も。
その時は第2ラウンドでMLBのスター選手を揃えたアメリカに勝利し、日本の決勝トーナメント進出をアシストしたが、2011年からの2シーズンを楽天でプレー。その後、メキシカンリーグに復帰し、2017年シーズンをメキシコシティで過ごしている。
2007年に20歳でメキシカンリーグデビューを飾ったジャフェット・アマダーは、2010年からディアブロスで6シーズンプレー。2015年にディアブロスとウインターリーグで計55本塁打を放つと、2016年シーズンには楽天に移籍した。
楽天では3シーズンで222試合に出場して52本塁打をマーク。日本での戦いを終えた後はディアブロスに戻り、現在も主砲として活躍している。
球界再編騒動に揺れた2004年に近鉄に在籍した元メジャーリーガーで、ドミニカ人右腕のヘクター・カラスコはアメリカ球界を渡り歩いたのち、2010年にディアブロスでプレー。
2005年に新球団オリックス・バファローズで2試合連続3本塁打の荒業を成し遂げたカリーム・ガルシアは、韓国やメキシコ球界を渡り歩き、2016年のシーズン途中にディアブロスに移籍。ここで現役生活を終えている。
そして2014年から2017年まで日本ハムと阪神で計38勝を挙げたルイス・メンドーサもまた、その後ディアブロスをプレー先に選んでいる。
ほかにもルディ・ペンバートン(2000年/1997~1998西武)や、ジョン・レスター(2014年/2009~2010オリックス)、ブライアン・コーリー(2012年/2004巨人)、ルイス・ヒメネス(2018年/2019楽天)など、多くの「助っ人外国人」がこのメキシコの名門チームでプレーした。
日本人選手としては、過去に元楽天の横山貴明投手が2019年にディアブロスと契約したたものの、公式戦で登板することなく退団している。
乙坂には、DeNA時代の2018年と2019年にウインターリーグのオブレゴンでプレー経験がある。ラテンアメリカの野球にも精通している彼に対する名門球団の期待は高いはずだ。
日本では不本意なかたちで球界から去ることになったが、新天地の名門球団でのブレイクを期待せずにはいられない。
文=阿佐智(あさ・さとし)