“元メジャー指導者”が13人も
今年のプロ野球の主役のひとりが、BIGBOSSこと日本ハムの新庄剛志監督であることは間違いないだろう。
選手より監督が目立ってしまうということには、いささかの違和感も伴うが、ワイドショーでも取り上げられる彼の一挙手一投足は、プロ野球人気向上に間違いなく貢献している。
BIGBOSSは旧来の因習にとらわれない奇抜なアイデアを次々と実践し、その明るいキャラクターで人気を博しているが、野球選手としての経歴も折り紙付きだ。
名門・阪神タイガースでブレイクを果たし、スターダムをかけ上がると、その地位をなげうってFA宣言。
日本球団のよりはるかに条件の劣るニューヨーク・メッツへ移籍し、準レギュラーとして3年間メジャーリーグでプレーした。
そして、日本球界復帰に際して選んだのが、今回監督を務める日本ハムファイターズだった。
札幌移転の成功を疑問視されていた球団の地域密着と人気向上に多大な貢献を果たし、チームの日本一を見届けると、余力を残して引退。
その後、球界とは距離を置いていたこともあり、今回の監督就任に首をかしげる声もあったが、彼の経歴を見ると、ファイターズの監督としてこれ以上適任な人物はいないようにも見える。
1995年に野茂英雄がメジャーリーグで旋風を巻き起こしてから四半世紀以上が経ち、これまですでに60余名の日本人メジャーリーガーが輩出されている。世界最高レベルのリーグを経験した彼らの「遺産」は日本球界にも還元されてしかるべきだろう。
実際、今年のプロ野球(NPB)には、新庄監督を含めた13人の“元メジャーリーガー”が監督・コーチとして登録されている。
3人の「元メジャー指導者」を抱える日本ハム
球団別でみると、BIGBOSSが監督を務める日本ハムは12球団中最多となる3人の元メジャー指導者を抱えている。
監督のBIGBOSS・新庄剛志は、2000年オフにFA宣言の上メッツと契約を結び、イチローとともに最初の日本人野手メジャーリーガーとして活躍した。
当時はまだ、日本人投手はメジャーで通用するが、野手については疑問視されていた時代。その中で開幕ロースター入りを果たし、最終的にはレギュラーポジションを獲得。
2年目となる2002年には、トレード先のサンフランシスコ・ジャイアンツにて、イチローが長いメジャーキャリアで成し遂げることができなかったワールドシリーズへの出場を日本人で最初に成し遂げている。
そして翌2003年にはメッツへ復帰。3シーズンで出場303試合、215安打、打率.245はイチローにははるか及ばないが、彼の姿はアメリカのファンに胸に今でも焼き付いている。
日本ハムは一・二軍とも監督が元メジャーリーガー。今シーズンから二軍監督を務めるのは、メジャー5シーズンでリリーフ投手として65試合に登板した木田優夫だ。
1999年にオリックスからFAでデトロイト・タイガースに移籍した元巨人のドラ1投手は、その年ブルペンの要として49試合に登板。結局このシーズンがキャリアハイで、ほとんどマイナー暮らしとなった翌シーズンは、シーズン途中で古巣オリックスに出戻った。
しかし、日本でも目立った活躍ではできず、この2001年シーズン限りで戦力外通告。そんな中で現役継続を決めた木田は、1年の浪人期間を経て、2003年にはドジャースでメジャー復帰を果たす。
そしてその翌年には、シーズン中のトレードでイチローのいるシアトル・マリナーズに移籍。オリックス時代以来の再会を果たすが、翌年限りで5シーズンのメジャー生活を終えることになった。
木田とともに、二軍で投手を指導している多田野数人も2シーズンのメジャー経験を持っているが、彼の場合、NPBを経由せずにマイナーからメジャーに這い上がり、のちNPBドラフトを経て日本球界入りしたという異色の経歴を持っている。
彼のメジャーでのプレーは2004年からの2シーズン、通算15試合というものだが、ルーキーシーズンには先発マウンドも4度踏み、1勝を挙げている。
パ・リーグは「メジャー志向」が強い?
全体に目を向けると元メジャーの指導者は13人。日本ハムを含むパ・リーグが7人とやや多い。
一軍監督について言えば、4人のうちパ・リーグに3人が集中している。
昨年オリックスとの壮絶な優勝争いを演じたロッテを率いる井口資仁は、2005年にダイエー(現・ソフトバンク)からシカゴ・ホワイトソックスに移籍。メジャー1年目からセカンドのレギュラーとして活躍し、チームのワールドシリーズ制覇に貢献した。
以来4シーズン中最初の3シーズンでレギュラーを務め、493試合で494安打・44本塁打の成績を残している。メジャーでは3球団を渡り歩いたが、最終年となる2008年にもフィリーズでワールドシリーズ制覇を果たしている(出場はなし)。
そしてこの時、井口とともにチャンピオンリングを手にしたのが、2002年からセントルイス・カージナルスを中心に8シーズンにわたってプレーした田口壮。こちらは現在、オリックスの外野守備・走塁コーチを務めている。
あとひとりの「元メジャー監督」は、楽天の石井一久だ。
ヤクルトでは黄金時代のエースとして君臨し、2002年にポスティングでロサンゼルス・ドジャースに移籍。以来3シーズンにわたって先発の軸として活躍した。
2005年にはニューヨーク・メッツに移籍するが、故障によりマイナー落ちを経験するなど思うような活躍ができず、4シーズンで39勝を挙げると、ヤクルトに復帰している。
石井のメジャー最終年にメッツでともにプレーしたのが、西武の松井稼頭央ヘッドコーチである。
日米野球では、同時期に日本球界で活躍した松井秀喜氏と区別するため、「リトル・マツイ」と呼ばれた日本球界屈指の名ショートは、2004年にFAでメッツへ移籍。開幕戦で初打席初球本塁打という華々しいデビューを飾った。
故障などもあり、2年目からはセカンドにコンバートされ、レギュラーというよりサブ的なポジションを任されるようになるが、2006年シーズン途中にコロラド・ロッキーズに移籍すると、翌シーズン後半にはセカンドのレギュラーポジションを奪取。チームのワールドシリーズ進出に貢献した。
そして翌年、ヒューストン・アストロズに移籍すると、2番セカンドとしてチームに欠かせない戦力となり、移籍2年目の2009年には日米通算2000安打を達成した。
しかし、翌2010年シーズン途中にアストロズは彼をリリース。松井は古巣のロッキーズとマイナー契約を結んでメジャー復帰を目指すが、これは叶わず。翌年からは楽天でプレーし、現役最後の8年を日本で過ごしている。
セ・リーグは全員が投手
一方のセ・リーグは「元メジャー指導者」の全員が投手だ。
昨年ヤクルトを日本一に導いた高津臣吾監督は、NPB歴代1位(当時)の260セーブの記録をひっさげて、FAでヤクルトからホワイトソックスに2004年に移籍。メジャーでもクローザーを務め、19セーブを記録する。
メジャー生活はシーズン途中にメッツにトレードされた翌年で終わってしまったが、帰国後は古巣のヤクルトに戻り、2シーズンで26セーブを上積みした後、韓国や台湾でもクローザーとして活躍。4カ国のトップリーグでセーブを挙げるという快挙を成し遂げている。
クローザーとして高津以上にメジャーで活躍したのが、中日のピッチングコーチを務める大塚晶文だ。
今はなき近鉄バファローズのクローザーとして6シーズンで120セーブを挙げた右腕は、2002年オフにポスティングでのメジャー移籍を試みるも入札がなく、中日に移籍。ここで17セーブを挙げると、2004年シーズンを前にサンディエゴ・パドレスと契約。メジャーへの夢を叶えた。
ルーキーイヤーからブルペンの中心的存在となり、セットアッパーとしてリーグ最多の34ホールドをマーク。2006年には第1回WBCで世界一に輝いた日本のクローザーを務めると、移籍先のテキサス・レンジャーズで32セーブを挙げている。
メジャーでの生活は肘の故障もあって翌2007年までだったが、2013年には高津らもプレーした独立リーグのルートインBCリーグで現役復帰。それでも故障は癒えず、翌14年に打者ひとりだけの引退登板を果たすと、指導者の道へ進んだ。
大塚と同時期にBCリーグでプレーしていた元メジャーリーガーが、DeNAの二軍投手コーチを務める大家友和だ。
高校からDeNAの前身・横浜ベイスターズにドラフト3位で入団したものの日本では芽が出ず、5年目の1998年シーズン後に自ら自由契約を申し出。了承を受けると、ボストン・レッドソックスとマイナー契約を結んだ。
1999年シーズンは2Aからのスタートであったが、この年に早くもメジャー昇格を果たし、初勝利も挙げている。以降11年のアメリカ生活で3度の2ケタ勝利を挙げるなど、メジャーで積み重ねてきた勝ち星は51を数える。
その大家と同じDeNAで一軍投手コーチを務める斎藤隆も、メジャーの舞台に立っている。
1992年に入団し、90年代後半にはエースとして横浜の投手陣を支えてきた右腕だったが、2005年に3勝に終わると、自ら自由契約を申し出てメジャーに挑戦。ロサンゼルス・ドジャースとマイナー契約を結ぶと、大方の予想に反して35歳にしてメジャー昇格を果たし、クローザーとして24セーブを挙げる。
3シーズン在籍していたドジャースでは計81セーブを挙げ、その後も4シーズンメジャーでプレー。2013年に楽天で日本球界復帰すると、3シーズンプレーした後、2015年シーズン終了後に現役23年で引退した。
同じくそれぞれの球団でピッチングコーチを務める巨人の桑田真澄と広島の高橋健も、斎藤と同じようにベテランになってから渡米し、マイナー契約からメジャーへと上り詰めた。
1990年代初め、巨人黄金時代の「三本柱」のひとりとして活躍した桑田だったが、2000年代に入ると衰えは隠せなくなっていた。登板数3に終わった2006年限りで巨人を退団した桑田はメジャー挑戦を決意。ピッツバーグ・パイレーツとマイナー契約し、2007年のスプリングトレーニングには招待選手として参加した。
しかし、オープン戦で右足首を負傷すると、マイナーに送られた上でリハビリに専念。それでも、投手陣が弱体とあって、6月にはついにメジャー昇格を果たす。39歳でのメジャーデビューは日本人選手として当時史上最高齢となった。
以後、リリーフとして19試合に登板するが、1勝も挙げることなく、8月に戦力外通告を受ける。翌2008年も招待選手としてパイレーツのスプリングトレーニングに参加したが、メジャー契約ができないことがわかるとそこで現役引退を発表した。
一方の高橋健は、広島で15年プレーして66勝87敗の星をNPBで残した。2ケタ勝利は2001年の10勝のみというから、メジャー球団が積極的に獲得するような成績ではなかったが、2008年にFAでメジャーに挑戦。40歳になる左腕にメジャー契約が用意されているわけではなく、マイナー契約でトロント・ブルージェイズのスプリングトレーニングに参加するが、開幕前にリリースされ、メッツに拾われた。
3Aで開幕を迎えるが、5月に念願のメジャー昇格。40歳でのメジャーデビューは、前出の桑田の記録を更新するもので、メジャー全体をみても、第2次大戦以降で史上3番目の記録となった。
リリーフとして28試合に登板し、初勝利はならなかったものの防御率2.96と奮闘。アメリカでのプレーはこの1シーズンだけで、2010年には広島に復帰すると、さらに4勝を上積みしてこの年限りで引退している。
彼らにとって、つかの間のメジャーはよき経験になったに違いない。
文=阿佐智(あさ・さとし)