みんなかつては“高校球児”
8月に入り、季節は夏真っ盛り。野球界の一大行事と言えば、やはり「夏の甲子園」だろう。
『第104回全国高等学校野球選手権大会』は6日(土)に開幕。7月31日には全49代表が出揃った。
現在プロ野球選手として活躍を見せているスターも、みんなかつては高校球児だった。
たとえば清宮幸太郎(早稲田実→日本ハム)や村上宗隆(九州学院→ヤクルト)のように、1年夏から甲子園に出場して話題を集めた“スーパー1年生”もいれば、高校時代の3年間は一度も甲子園とはご縁がなかったというプロ野球選手もいる。
また、大谷翔平(花巻東→日本ハム→エンゼルス)のように、2年夏・3年春と複数回甲子園に出場した選手でも、1年の夏はどんな成績を残したのか。そこはあまり知られていない。
というわけで今回は、現在NPBやMLBで活躍中のスター選手の“高校1年生時代”を振り返ってみよう。
佐々木朗希は1年生で「最速147キロ」
まずは、高校時代に最速163キロをマークした“令和の怪物”こと佐々木朗希(現・ロッテ)から。
中学時代は軟式でプレーし、3年時にオール気仙沼の一員としてKボール東北大会の準優勝に貢献した佐々木。高校進学に際しては、当然のように大阪桐蔭や花巻東といった強豪校からも誘われたという。
だが、「中学時代がすごく楽しかった。仲間と打倒私立で甲子園を目指す」という理由から地元の大船渡へ。
入学の時点で186センチの長身だった佐々木は、1年夏の岩手大会でも背番号18でベンチ入りをはたした。
初戦(2回戦)の盛岡北戦、チームは2回に2本の適時打で2点を挙げるなど、7回まで4-1とリードしていた。
ところが8回、2年生の2番手投手が3安打を浴びて2点を返され、1点差でなおも二死二・三塁。一打逆転のピンチを迎えてしまう。
この重要局面で、大船渡・吉田一知監督は「力で抑えられる佐々木に託すしかない」と、1年生の佐々木を公式戦初登板のマウンドに送った。
「すごく緊張したけど、3年生のためにしっかり抑えようと気持ちを切り替えた」という佐々木は、140キロを超える直球で押しまくり、次打者を三振に切って取った。
そして、5-3で迎えた最終回も最速147キロを記録するなど、2三振を奪う快投で無安打無失点。
「公式戦はまだ早いかと思ったけど、期待に応えてくれた」と吉田監督を喜ばせた。
チームは3回戦で花巻南に2-3と惜敗。佐々木は出番なく終わったが、1年夏にピンチの場面で貴重なリリーフ経験を積んだことが、2年目以降の飛躍に生かされることになる。
大谷翔平は「体重66キロ」だった
花巻東入学後、春の県大会でいきなり4番に抜擢されたのが大谷翔平だ。
前年のチームは、剛腕・菊池雄星(現・ブルージェイズ)をはじめ、超高校級のタレントを揃えて春のセンバツ準優勝、夏もベスト4と甲子園で“みちのく旋風”を起こした。しかしながら、レギュラー全員が卒業した新チームは、小粒になった感は免れなかった。
そんな成長途上のチームに刺激を与えるため、佐々木洋監督は春の県大会で、入学したばかりの太田知将を1番、大谷を4番に入れるオーダーを組んだ。
身長189センチながら体重66キロとまだ細身だった大谷が4番らしさを見せたのは、準々決勝の伊保内戦だった。
1回二死三塁のチャンスで、最速147キロ右腕・風張蓮(元ヤクルトなど)の初球を右前に先制適時打。
「力不足の自分がいくら考えても仕方がない。直球を狙っていた」と開き直ったことが吉と出た。
この一打で勢いに乗ったチームは14-5で7回コールド勝ち。大谷も4打数2安打・2打点を記録した。
だが、準決勝の大船渡戦では4打数無安打。決勝の久慈戦も5打数無安打に終わり、チームも優勝を逃す。
大谷は「岩手2位校」として臨んだ東北大会の1回戦・東日本大昌平戦では「5番・右翼」に降格され、2打数無安打のあと、代打を送られてベンチに下がった。
夏の県大会では、背番号17でベンチ入りした大谷だったが、初戦から2試合続けて出番がなかった。
そして、4回戦の盛岡中央戦。0-8と大きくリードされた6回に「ピッチャー、大谷」が告げられた。
これが公式戦初登板。1イニングを無安打1四球の無失点に抑えたが、チームは7回に得点できず、コールド負けを喫している。
そんななか、大谷は7回に回ってきた夏の大会初打席で二塁打を放ち、“投打二刀流デビュー”を1回無失点、1打数1安打で飾った。
山本由伸は「9番・三塁」
自らのバットで逆転劇に貢献しながら、リリーフ登板直後に痛打され、まさかの初戦敗退に泣いたのが、都城1年生時代の山本由伸(現・オリックス)だ。
岡山県から野球に集中できる環境を求め、宮崎県にある都城に入学した山本。レギュラー9人中3年生は2人だけという若いチームにあって、1年生で唯一「9番・三塁」としてレギュラー入りをはたす。
入学時に「投手、野手のどちらが好き?」と聞かれ、「両方やりたいです」と答えた男は、三塁手をやりながら練習試合で登板するなど、“二刀流”に挑戦していた。
春夏併せて9度甲子園に出場した名門も、1999年を最後に聖地から遠ざかり、春の県大会も2回戦で敗退。
夏の宮崎大会1回戦・高千穂戦も、1-1の5回に3点を勝ち越される苦しい展開だったが、7回に山本の2点適時打などで4点を挙げ、逆転に成功する。
だが、5-4の8回から3番手で登板した山本は、一死満塁のピンチを招いてしまう。
次打者・甲斐翔大のスクイズは失敗。ホッとした直後、山本は4球目の外角直球を甲斐にミートされ、不運にも三塁手のグラブをはじく逆転適時打に……。
「舞い上がって制球が甘くなった」と反省した山本は、9回をゼロに抑えたものの、味方は8回一死満塁の追撃機を逃し、5-6で敗れた。
65キロあった体重が猛練習で58キロにまで減っていた山本は、1日4食の“食トレ”でパワーアップに励み、秋には最速140キロをマーク。新チームではエースナンバーを勝ち取った。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)