とにかく走り、鍛えていた村田さん
登板日に400グラムのステーキを食べて体を起こし、グイッと一杯飲むコップの持ち方は持ち球フォークの握り。ドアノブを回す時だって、人さし指と中指でつかみ親指で支えてグルッと回す。
これは11日に東京都内の自宅で亡くなった元ロッテ・村田兆治さんの逸話である。
独特のダイナミックな「マサカリ投法」で知られ、剛速球とフォークを操る。通算215勝を挙げた名球会員。野球殿堂入りも果たしている。
なぜ亡くなったか、と同時に浮かぶのはどういうスタイルで投げ続けるアスリートだったのか。ロッテ時代のチームメートで、中日の用具係・平沼定治さんが明かしてくれた。
多弁ではなかった。速球のスピードアップの方法を聞けば「走れ、走れ」。フォークの落差の秘訣を尋ねると「もっと指を開け」と返ってくる。
確かに、練習と言えば右翼と左翼、外野のポール間を「2時間でも3時間でもずっと走っていた」のだとか。
トレーニングルームにこもれば、チームメートが部屋をそそくさと出ていく。同じ腹筋・背筋のメニューを課せられると分かっているからだった。
「サダ、やれ」と言われて平沼さんはこなした。「自分にしたら明らかにやりすぎの量だった」。練習前だから、試合に影響が出る。
「投げていて腹がつったからね。腹がつるなんて後にも先にも、あの1度きりだよ」。村田さんは走り、鍛えていた。
「野球選手だろ。持ち方が違う」
村田さんが飲むお酒の量は「ほどほどだった」という。
1980年代後半。世の中のブームも後押しして、野球選手は焼酎からウイスキーに移行していた。
村田さんはコップに注ぎ、常温の水で割る。体を冷やすから氷は入れない。フォークを意識するように、人さし指と中指の2本でコップを持ち上げ、流し込む。
平沼さんがコップをわしづかみすると、頭をたたかれた。「野球選手だろ。持ち方が違う」。指導だった。
頼もしくもあった。1989年9月23日の西武戦(西武球場)。清原和博さんに死球を与えて、バットを投げられる。
カッカしていた平沼さんは、翌日に清原さんから謝罪を受ける。選手会長・辻発彦さんに連れられた清原さんを見る。平沼さんの後ろで、にらみを利かせていたのが村田さん。
「村田さんが何を言ったのかは覚えていないんだけど、叫んでいたのは覚えている」。味方のベテランに守られているのが分かり、妙にうれしかった。
引退後も気に掛けてもらった。平沼さんはロッテから中日に戻り、その後は打撃投手に転身する。
ホームの一塁ベンチ裏には、スタッフの小部屋がある。そこが平沼さんの居場所。新聞の評論やテレビ解説で足を運んだ村田さんは、きまって小部屋に来る。ニコニコして、近況を話していたという。
豪快で仲間思い。他界した右腕のエピソードは、恩を感じた後輩たちが語り継ぐ。
文=川本光憲(中日スポーツ・ドラゴンズ担当)