白球つれづれ2023・第21回
駆け出しの野球記者だった頃、夜の楽しみは先輩記者たちと酌み交わす酒と昔の野球伝説を聞くことだった。
「中西の打球は、平和台球場のバックスクリーンを超えていったんだぜ」。
「ショートがジャンプした打球は左中間スタンドまで飛んでいった」。いわゆる「怪童伝説」である。
そんな中西太さんが今月11日に心不全のため亡くなった。90歳だった。
“怪童”と言うフレーズはこの人のためにあった。
1952年西鉄(現西武)に入団すると高卒新人ながら、いきなり開幕スタメンで出場。翌年には本塁打、打点の二冠を獲得、そればかりか、3割、30本塁打、30盗塁の「トリプルスリー」まで史上最年少で手にしている。
56年からは稲尾和久、豊田泰光らと共に3年連続日本一。伝説の“野武士軍団”は博多の街を熱狂の渦に巻き込んだ。
以後、“怪童”と呼ばれたのは1960年代に東映(現日本ハム)で活躍した尾崎行雄あたりか。こちらは浪商高2年で中退すると、1年目から3年連続20勝を記録している。その後は“昭和の怪物”江川卓(巨人)“平成の怪物”松坂大輔(西武)“令和の怪物”佐々木朗希(ロッテ)と名称が代わり、“村神様”こと村上宗隆(ヤクルト)に“怪童”の臭いがする。
174センチの体は大きくないが、太腿とお尻は常人の倍くらいある太さ。そのヒップを揺すりながら放たれる打撃は「ツイスト打法」と呼ばれた。当時流行っていた人気のリズムが腰を激しく揺するから、その名がついたとも言われる。
1キロ近い重いバットを、持ち前のリストの強さで弾き返すため、打球は速く、飛距離も出る。だが、誰も真似のできない打撃には思わぬ落とし穴があった。強すぎる手首はやがて、腱鞘炎となり選手生命を縮めていった。
18年の現役生活ながら、フルに活躍したのは最初の8年だけ。通算1262安打、244本塁打、785打点は名球会資格に遠く及ばないが、残したインパクトはON級のものがある。
打撃コーチの職人として多くの名選手を育てる
“怪童”は現役引退後に打撃コーチの職人、“名伯楽”として球界に大きな足跡を残した。
打球ポイントは近くして、腰を起点とした下半身主導で強く打つ。バットの入射角度は内側から。これなら外角球もヘッドが効くので強い打球が打てる。かつて近鉄で共にコーチとして働いた権藤博氏は日刊スポーツの紙面で「打撃の伝道師」と称えている。
口八丁に手八丁。衰えを知らない情熱で若松勉(ヤクルト)、掛布雅之(阪神)イチロー(オリックス)など教え子は数知れず。今でこそ、試合前の練習で行われるトスバッティングも正面から、側面から、真上から落としてみたりと数多くのバリエーションを実践しているが、これも中西流が元祖だ。
村上や山田哲人選手らを指導するヤクルト・杉村繁打撃コーチは「うちの練習法は今でも中西さんの教えが継承れている」と言う。
栄光に包まれた白球人生にあって、悔いが残ったとすれば監督での苦労だったのではないか?
29歳の若さで西鉄の兼任監督に就任。2年目にリーグ優勝こそ成し遂げるが、その後は日本ハム、阪神、ヤクルト、ロッテで指揮を執ったものの、いずれも短期間で退任して結果は残せないままで終わった。
義父は昭和の名将・三原脩氏。「魔術」と言われた三原から秘伝の野球メモも受け継いだ。その一方で「重要な局面では正視できずに、うつむいていた」というもう一つの中西伝説も語られている。
本人の名誉のためにも付け加えておきたいのは、西鉄監督時代の晩年に起きた「黒い霧事件」と球団の身売りである。一部選手に八百長疑惑が起こり、主力選手らが永久追放。これで追い込まれた球団が身売りに舵を切って、栄光の歴史は幕を閉じた。もう少し、違う環境だったら中西の監督像は違う形になっていたかも知れない。
三原野球を心酔する栗山英樹侍ジャパン監督によって世界一は達成された。秘蔵メモの橋渡し役を買って出たのは中西だった。病床でその瞬間を見た中西にどんな思いが去来したのだろう?
どの球団からも愛され、誰からも慕われた元“怪童”にして、元“名伯楽”人生の金メダルを手にして今頃は旧友たちとの再会を楽しんでいるはずである。
文=荒川和夫(あらかわ・かずお)