第96回選抜高校野球が3月18日に開幕する。近年はプロ出身監督率いるチームの出場も相次ぎ、今年も常総学院・島田直也監督(日本ハム‐横浜-ヤクルト‐近鉄)が、2021年春以来、2度目の甲子園が当確。過去にセンバツ出場をはたしたプロ出身監督をプレイバックしてみよう。
まず、第1号は、戦前の巨人で投打二刀流として活躍し、後に球団のエースナンバーとなる18番を最初に着けたことでも知られる前川八郎だ。
1938年、26歳で巨人を退団すると、旧制滝川中の監督に就任。当時の同校には別所昭(毅彦)、青田昇がいた。1940、41年と2年連続でセンバツに出場し、いずれも8強入りをはたした。
戦後の46年に阪急の投手として現役復帰をはたした前川は、現役引退後も兵庫工、堀越の監督を務め、兵庫工野球部長時代の58年にもセンバツに出場している。
甲子園では優勝投手、プロでも優勝を経験し、現役引退後に明星の監督として春夏併せて3度甲子園に出場したのが、真田重蔵だ。
海草中(現・向陽)時代の1939年に三塁手、40年にエースとして夏の甲子園2連覇に貢献した真田は、43年に朝日軍に入団。松竹時代の50年に39勝12敗で優勝の立役者となり、最多勝と沢村賞、大阪時代の52年に2度目のノーヒットノーランを記録するなど、実働12年で通算178勝128敗の成績を残した。
そして、58年に明星の監督に就任すると、61年春、63年春夏と甲子園に出場。センバツではいずれも強敵と当たり、初戦敗退に終わったが、63年夏は決勝で春に苦杯をなめた下関商・池永正明を攻略し、甲子園優勝監督になった。
1950年に投手として東急に1年だけ在籍した蔦文也も、池田を率いて春夏通算14度の甲子園に出場。センバツでは「さわやかイレブン」の74年に準優勝、「やまびこ打線」の83年と86年に優勝、夏も優勝と準優勝1回ずつと、“攻めダルマ”の愛称にふさわしい実績を残した。
1950年に西日本で11勝を挙げ、その後、西鉄、近鉄でもプレーした野本喜一郎も上尾の監督として春夏併せて6度甲子園に出場。2度出場のセンバツは、初出場の63年に1回戦で松阪商を3-0で下したのが唯一の白星だが、夏は75年に原辰徳の東海大相模を撃破して4強入りをはたした。
だが、1961年に中日が日本生命の外野手・柳川福三を引き抜いた柳川事件をきっかけに、プロ、アマの交流は断絶。プロアマ規定により、プロ出身者が高校の指導者になる道も閉ざされたが、1984年、元東映の外野手・後原(せどはら)富がプロアマ規定下で初めて高校の監督就任を認められ、新時代の幕を開ける。
東映時代は在籍3年で1軍出場121試合、打率.238、2本塁打、9打点とあまり活躍できなかった後原だが、筆者にとっては思い出深いプロ野球選手の一人だ。
小学生時代の1970年、地元で開催されたイースタンの巨人戦を見に行ったときに、東映の新人投手・中原勇からサインを貰った。その際に、三塁側ベンチ近くの内野席から選手のサインをねだる少年たちに「彼(中原)がサインするから、順番に並んで」と声をかけたのが、この日1番打者として出場していた後原だった。少年ファンにとって、生まれて初めてサインを貰ったプロ野球選手の名前は終生忘れられないが、“臨時サイン会”をセッティングしてくれた後原も然りだった。
この年限りで現役を引退した後原は、母校・駒大の聴講生になって教員免許を取得。郷里・広島の松本商(後の瀬戸内)に社会科教諭として赴任した。
だが、野球部の指導ができないため、1982年、牧野直隆高野連会長が広島を訪れた際に直訴したところ、「何か理由が要る」という答えが返ってきた。そこで、「私は教員になってすでに12年が過ぎました。10年以上というのはどうでしょう」と提案すると、「それがいい」という話になった。そして、就任8年目の1991年、後原監督率いる瀬戸内はセンバツ出場。1回戦で神戸弘陵を3-2で下し、甲子園初勝利を手にした。
その後、「10年」の条件は、94年に5年、97年には2年に短縮され、2012年に2年間の教員歴を経た元ダイエー・大越基監督の早鞆が、後原監督に次いで2人目のセンバツ出場。さらに、翌13年からは、教員歴がなくても、プロ、アマがそれぞれ実施する研修会に参加し、適性検査を経るという条件で、高校野球の指導が可能になった。
大幅緩和後は、15年に若林弘泰監督(中日)の東海大菅生、19年に中谷仁監督(阪神-楽天-巨人)の智弁和歌山、20年にも中村良二監督(近鉄-阪神)の天理と佐々木誠監督(ダイエー‐西武-阪神)の鹿児島城西が相次いでセンバツ代表の座を射止めた(20年はコロナ禍で大会中止になり、夏に交流試合として実施)。
17年夏の甲子園初采配でベスト4入りをはたした中村監督は、21年にも冒頭で紹介した常総学院・島田監督とともにセンバツに出場し、4強入りした(昨年12月に退任。佐々木監督も同時期に退任)。昨秋の北信越大会では、芝草宇宙監督(日本ハム‐ソフトバンク)の帝京長岡も8強入りし、準優勝校の敦賀気比とタイブレークを演じるなど健闘している。あとに続く日も近そうだ。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
プロ出身監督、第1号は「二刀流」で活躍した
まず、第1号は、戦前の巨人で投打二刀流として活躍し、後に球団のエースナンバーとなる18番を最初に着けたことでも知られる前川八郎だ。
1938年、26歳で巨人を退団すると、旧制滝川中の監督に就任。当時の同校には別所昭(毅彦)、青田昇がいた。1940、41年と2年連続でセンバツに出場し、いずれも8強入りをはたした。
戦後の46年に阪急の投手として現役復帰をはたした前川は、現役引退後も兵庫工、堀越の監督を務め、兵庫工野球部長時代の58年にもセンバツに出場している。
甲子園では優勝投手、プロでも優勝を経験し、現役引退後に明星の監督として春夏併せて3度甲子園に出場したのが、真田重蔵だ。
海草中(現・向陽)時代の1939年に三塁手、40年にエースとして夏の甲子園2連覇に貢献した真田は、43年に朝日軍に入団。松竹時代の50年に39勝12敗で優勝の立役者となり、最多勝と沢村賞、大阪時代の52年に2度目のノーヒットノーランを記録するなど、実働12年で通算178勝128敗の成績を残した。
そして、58年に明星の監督に就任すると、61年春、63年春夏と甲子園に出場。センバツではいずれも強敵と当たり、初戦敗退に終わったが、63年夏は決勝で春に苦杯をなめた下関商・池永正明を攻略し、甲子園優勝監督になった。
「さわやかイレブン」「やまびこ打線」で甲子園を席捲
1950年に投手として東急に1年だけ在籍した蔦文也も、池田を率いて春夏通算14度の甲子園に出場。センバツでは「さわやかイレブン」の74年に準優勝、「やまびこ打線」の83年と86年に優勝、夏も優勝と準優勝1回ずつと、“攻めダルマ”の愛称にふさわしい実績を残した。
1950年に西日本で11勝を挙げ、その後、西鉄、近鉄でもプレーした野本喜一郎も上尾の監督として春夏併せて6度甲子園に出場。2度出場のセンバツは、初出場の63年に1回戦で松阪商を3-0で下したのが唯一の白星だが、夏は75年に原辰徳の東海大相模を撃破して4強入りをはたした。
新時代の幕を開けた“功労者”
だが、1961年に中日が日本生命の外野手・柳川福三を引き抜いた柳川事件をきっかけに、プロ、アマの交流は断絶。プロアマ規定により、プロ出身者が高校の指導者になる道も閉ざされたが、1984年、元東映の外野手・後原(せどはら)富がプロアマ規定下で初めて高校の監督就任を認められ、新時代の幕を開ける。
東映時代は在籍3年で1軍出場121試合、打率.238、2本塁打、9打点とあまり活躍できなかった後原だが、筆者にとっては思い出深いプロ野球選手の一人だ。
小学生時代の1970年、地元で開催されたイースタンの巨人戦を見に行ったときに、東映の新人投手・中原勇からサインを貰った。その際に、三塁側ベンチ近くの内野席から選手のサインをねだる少年たちに「彼(中原)がサインするから、順番に並んで」と声をかけたのが、この日1番打者として出場していた後原だった。少年ファンにとって、生まれて初めてサインを貰ったプロ野球選手の名前は終生忘れられないが、“臨時サイン会”をセッティングしてくれた後原も然りだった。
この年限りで現役を引退した後原は、母校・駒大の聴講生になって教員免許を取得。郷里・広島の松本商(後の瀬戸内)に社会科教諭として赴任した。
だが、野球部の指導ができないため、1982年、牧野直隆高野連会長が広島を訪れた際に直訴したところ、「何か理由が要る」という答えが返ってきた。そこで、「私は教員になってすでに12年が過ぎました。10年以上というのはどうでしょう」と提案すると、「それがいい」という話になった。そして、就任8年目の1991年、後原監督率いる瀬戸内はセンバツ出場。1回戦で神戸弘陵を3-2で下し、甲子園初勝利を手にした。
その後、「10年」の条件は、94年に5年、97年には2年に短縮され、2012年に2年間の教員歴を経た元ダイエー・大越基監督の早鞆が、後原監督に次いで2人目のセンバツ出場。さらに、翌13年からは、教員歴がなくても、プロ、アマがそれぞれ実施する研修会に参加し、適性検査を経るという条件で、高校野球の指導が可能になった。
大幅緩和後は、15年に若林弘泰監督(中日)の東海大菅生、19年に中谷仁監督(阪神-楽天-巨人)の智弁和歌山、20年にも中村良二監督(近鉄-阪神)の天理と佐々木誠監督(ダイエー‐西武-阪神)の鹿児島城西が相次いでセンバツ代表の座を射止めた(20年はコロナ禍で大会中止になり、夏に交流試合として実施)。
17年夏の甲子園初采配でベスト4入りをはたした中村監督は、21年にも冒頭で紹介した常総学院・島田監督とともにセンバツに出場し、4強入りした(昨年12月に退任。佐々木監督も同時期に退任)。昨秋の北信越大会では、芝草宇宙監督(日本ハム‐ソフトバンク)の帝京長岡も8強入りし、準優勝校の敦賀気比とタイブレークを演じるなど健闘している。あとに続く日も近そうだ。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)