オリックスのアンダーソン・エスピノーザ、ヤクルトのミゲル・ヤフーレと新助っ人2人が揃って開幕3連勝を記録し、注目を集めている。
だが、過去には、開幕直後に活躍し、「これは期待できそうだ」とファンを喜ばせたにもかかわらず、その後は尻すぼみだったり、突然帰国してしまった助っ人も少なくない。
NPB史上初の開幕戦の来日初打席で満塁弾をかっ飛ばしたケビン・ミッチェル(ダイエー)や“神のお告げ”で電撃引退したマイク・グリーンウェル(阪神)が有名だが、ほかにも「ああ、そんな選手もいたなあ」とちょっぴり懐かしくなる助っ人たちを振り返ってみよう。
開幕から2連勝を記録しながら、以後、1勝もできずに終わったのが、2017年にDeNA入りした201センチの右腕、フィル・クラインだ。
メジャー通算40試合で2勝3敗も、前年3Aで5勝1敗、防御率1.52と好投したことが買われ、巨人にFA移籍した山口俊の穴を埋める先発要員として、推定年俸1億5000万円で入団が決まる。
春季キャンプ中の2月18日の練習試合、中日戦で5回から来日初登板したクラインは、長身からの角度のあるスリークォーターから150キロを超える速球と切れのある変化球を武器に3者連続三振で即戦力をアピール。
アレックス・ラミレス監督も「(198センチの)ランディ・メッセンジャー(阪神)に似ている。二桁は必ず勝つ。(この時期に)そう思ったのは初めて。体が大きくて(球は)新幹線が来る感じ。自分が打者でも苦戦する」とベタ褒めだった。
そして、シーズン開幕後、4月1日のヤクルト戦で先発したクラインは5回を4安打1失点に抑え、来日初勝利。さらに同16日のヤクルト戦でも4回に自ら逆転2点タイムリーを放ち、投打にわたる活躍で開幕2連勝。休暇で来日していたリンリー夫人の美貌も話題を呼んだ。
だが、登板7試合で25与四死球という制球の悪さから、5月27日の阪神戦で6失点するなど、3連敗して6月3日に2軍落ち。さらに右肘痛を訴え、8月7日、治療のため帰国したが、チームが日本シリーズに進出しても復帰することなく、自由契約に。“メッセンジャー2世”にはなれなかった。
油絵が趣味の助っ人として人気者になったのが、2009年にロッテ入りした内野手のゲイリー・バーナム・ジュニアだ。
メジャー経験はないが、前年台湾のLa Newでプレーし、70試合で打率.323、10本塁打、56打点を記録。シーズン当初からロッテのボビー・バレンタイン監督にメールを送り、「日本でプレーしたい」と売り込んだ熱意が実り、秋季キャンプでの入団テストを経て、年俸1300万円で契約をかち取った。
1月末の来日時には採用のお礼を兼ねて、鉛筆で約15時間かけて描いた同監督の肖像画を持参。父親が農業を営む傍ら、画家として活動し、個展も開いていたという“血筋”から、肖像画も趣味の域を超えた出来栄えだった。この野球以外の才能もファンサービスに用いられ、「バーナム画伯の似顔絵講座」なるイベントも開催された。
そして、シーズンが開幕すると、左打ちのバーナム・ジュニアは相手が右投手のときに2番、7番、8番でスタメン出場。4月29日のオリックス戦で金子千尋から1号3ランを放つなど、4月終了時に打率.421をマークし、お買い得ぶりをアピールした。
だが、5月はわずか4安打と急降下し、6月には2軍落ちも経験。1軍復帰後の7月17日のソフトバンク戦で1ヵ月半ぶりの決勝号3号2ランを放ち、チームの連敗を「7」で止めたものの、開幕直後の好調を取り戻せないまま、打率.218、4本塁打、22打点でシーズン終了。34歳という年齢もあって、1年で戦力外になった。
だが、打率はともかく、四死球の多さから、出塁率.348をマーク。億単位の年俸を貰いながら、期待を裏切った助っ人もいることを考えると、1軍最低年俸(当時は1430万円)にも満たない条件で、よくやったと言えるかもしれない。
オープン戦で満塁本塁打を打ち、開幕直後も長打を連発したにもかかわらず、最終的に球団の助っ人のワースト記録を更新してしまったのが、2013年に推定年俸7000万円で阪神入りした両打ちの内野手、ブルックス・コンラッドだ。
前年限りで退団したクレイグ・ブラゼルの後釜と期待されたコンラッドは、2月23日のオープン戦、日本ハム戦でライト・大谷翔平の頭上を越えるチーム1号のアーチを放ち、「(スイッチは)右打席のほうが飛距離が出るけど、左でもあそこまで飛ばせる力がある」と和田豊監督を喜ばせた。さらに3月15日のDeNA戦でも満塁本塁打を放つなど、オープン戦で3本塁打、12打点を記録した。
そして、ヤクルトとの開幕3連戦でも、コンラッドは二塁打3本を含む11打数4安打を記録したが、その後、球団の1年目の外国人選手では、1972年のレオン・マックファーデンを更新する58打席連続無打点を記録し、4月22日に早くも2軍落ち。交流戦が始まった5月19日に1軍復帰も、7打数1安打5三振とまったく結果を出せず、5月30日に再び登録抹消されると、そのまま出場わずか24試合、打率.175、0本塁打の69打席連続無打点で退団となった。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
だが、過去には、開幕直後に活躍し、「これは期待できそうだ」とファンを喜ばせたにもかかわらず、その後は尻すぼみだったり、突然帰国してしまった助っ人も少なくない。
NPB史上初の開幕戦の来日初打席で満塁弾をかっ飛ばしたケビン・ミッチェル(ダイエー)や“神のお告げ”で電撃引退したマイク・グリーンウェル(阪神)が有名だが、ほかにも「ああ、そんな選手もいたなあ」とちょっぴり懐かしくなる助っ人たちを振り返ってみよう。
“メッセンジャー2世”にはなれず
メジャー通算40試合で2勝3敗も、前年3Aで5勝1敗、防御率1.52と好投したことが買われ、巨人にFA移籍した山口俊の穴を埋める先発要員として、推定年俸1億5000万円で入団が決まる。
春季キャンプ中の2月18日の練習試合、中日戦で5回から来日初登板したクラインは、長身からの角度のあるスリークォーターから150キロを超える速球と切れのある変化球を武器に3者連続三振で即戦力をアピール。
アレックス・ラミレス監督も「(198センチの)ランディ・メッセンジャー(阪神)に似ている。二桁は必ず勝つ。(この時期に)そう思ったのは初めて。体が大きくて(球は)新幹線が来る感じ。自分が打者でも苦戦する」とベタ褒めだった。
そして、シーズン開幕後、4月1日のヤクルト戦で先発したクラインは5回を4安打1失点に抑え、来日初勝利。さらに同16日のヤクルト戦でも4回に自ら逆転2点タイムリーを放ち、投打にわたる活躍で開幕2連勝。休暇で来日していたリンリー夫人の美貌も話題を呼んだ。
だが、登板7試合で25与四死球という制球の悪さから、5月27日の阪神戦で6失点するなど、3連敗して6月3日に2軍落ち。さらに右肘痛を訴え、8月7日、治療のため帰国したが、チームが日本シリーズに進出しても復帰することなく、自由契約に。“メッセンジャー2世”にはなれなかった。
油絵が趣味の助っ人として人気者になったのが、2009年にロッテ入りした内野手のゲイリー・バーナム・ジュニアだ。
メジャー経験はないが、前年台湾のLa Newでプレーし、70試合で打率.323、10本塁打、56打点を記録。シーズン当初からロッテのボビー・バレンタイン監督にメールを送り、「日本でプレーしたい」と売り込んだ熱意が実り、秋季キャンプでの入団テストを経て、年俸1300万円で契約をかち取った。
1月末の来日時には採用のお礼を兼ねて、鉛筆で約15時間かけて描いた同監督の肖像画を持参。父親が農業を営む傍ら、画家として活動し、個展も開いていたという“血筋”から、肖像画も趣味の域を超えた出来栄えだった。この野球以外の才能もファンサービスに用いられ、「バーナム画伯の似顔絵講座」なるイベントも開催された。
そして、シーズンが開幕すると、左打ちのバーナム・ジュニアは相手が右投手のときに2番、7番、8番でスタメン出場。4月29日のオリックス戦で金子千尋から1号3ランを放つなど、4月終了時に打率.421をマークし、お買い得ぶりをアピールした。
だが、5月はわずか4安打と急降下し、6月には2軍落ちも経験。1軍復帰後の7月17日のソフトバンク戦で1ヵ月半ぶりの決勝号3号2ランを放ち、チームの連敗を「7」で止めたものの、開幕直後の好調を取り戻せないまま、打率.218、4本塁打、22打点でシーズン終了。34歳という年齢もあって、1年で戦力外になった。
だが、打率はともかく、四死球の多さから、出塁率.348をマーク。億単位の年俸を貰いながら、期待を裏切った助っ人もいることを考えると、1軍最低年俸(当時は1430万円)にも満たない条件で、よくやったと言えるかもしれない。
阪神の助っ人“ワースト記録”を更新
オープン戦で満塁本塁打を打ち、開幕直後も長打を連発したにもかかわらず、最終的に球団の助っ人のワースト記録を更新してしまったのが、2013年に推定年俸7000万円で阪神入りした両打ちの内野手、ブルックス・コンラッドだ。
前年限りで退団したクレイグ・ブラゼルの後釜と期待されたコンラッドは、2月23日のオープン戦、日本ハム戦でライト・大谷翔平の頭上を越えるチーム1号のアーチを放ち、「(スイッチは)右打席のほうが飛距離が出るけど、左でもあそこまで飛ばせる力がある」と和田豊監督を喜ばせた。さらに3月15日のDeNA戦でも満塁本塁打を放つなど、オープン戦で3本塁打、12打点を記録した。
そして、ヤクルトとの開幕3連戦でも、コンラッドは二塁打3本を含む11打数4安打を記録したが、その後、球団の1年目の外国人選手では、1972年のレオン・マックファーデンを更新する58打席連続無打点を記録し、4月22日に早くも2軍落ち。交流戦が始まった5月19日に1軍復帰も、7打数1安打5三振とまったく結果を出せず、5月30日に再び登録抹消されると、そのまま出場わずか24試合、打率.175、0本塁打の69打席連続無打点で退団となった。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)