今季、アダム・ウォーカーとの交換トレードでソフトバンクから巨人に移籍した高橋礼が開幕から先発ローテ入りし、9試合で2勝2敗、防御率3.12を記録。現在はファームで調整中となっているが、ソフトバンクでは2019、20年の日本一に貢献したあと、3年間持てる力を発揮できなかったのが嘘のような復活ぶりだ。そして、過去にも移籍を機に水を得た魚のように見事再生をはたした投手たちが存在した。
広島時代の1968年に23勝を挙げ、球団創設後、初のAクラス入りに貢献した安仁屋宗八もその一人だ。
翌年以降は、痛風に悩まされ、成績が下降。さらに74年に就任したジョー・ルーツコーチからシーズン開幕直前にアンダースローに変えるよう指示されたのを拒否したことから登板機会が減り、オフに若生智男とのトレードで阪神に放出された。
広島で野球人生を全うするつもりだった安仁屋は、一時は引退も考えたが、「1年くらい遊んでこい」と恩人に説得され、阪神に移籍した。
「もう“絶対にカープを見返してやろう!”という一心で、オフに生まれて初めてトレーニングジムに通ったんです。これがよかった。それまではオフといえば遊んでばかりいましたから」(講談社『本』2017年8月号 二宮清純『新日本野球紀行』)。
翌75年、安仁屋は自己最多の66試合に登板し、5年ぶりの二桁勝利となる12勝5敗7セーブ、防御率1.91を記録し、初タイトルの最優秀防御率に輝くとともに、カムバック賞も受賞。さらに76年も10勝4敗10セーブと2年連続二桁をマークし、80年に古巣・広島への復帰をはたしている。
近鉄時代に阿波野秀幸とともに左のエースだった小野和義も、自由契約を経て、新天地・西武で復活を遂げた。
1986年から4年連続二桁勝利をマークし、91年にも12勝を挙げてカムバック賞を受賞した小野は、92年は0勝3敗、93年も1勝1敗と低迷。信頼する立花龍司コンディショニングコーチの調整方法をめぐって、鈴木啓示監督とも確執を深め、93年オフに自由契約になった。
「シーズンの途中から、ひょっとしたらという気持ちはありましたから、さほど……。実際の野球生活においては悔いはなかったんですが、ただ気持ちの面で、まだやりたい。何かやり残したことがあると感じた。それで野球を続けようという気になったんです」(「週刊ベースボール」1994年4月11日号)。
28歳と年齢的にも若く、まだ先発として十分働けるとあって、数球団からオファーがあったが、「最初に声をかけてくれた球団」西武を選び、秋季キャンプでテストに合格。晴れて移籍が決まった。
「この1年目が勝負。数字とかの目標は持たないで、とにかくがむしゃらにやりたいです」と1からの出直しを誓った小野は、速球の威力の衰えを、SFFを巧みに配してカバーする技巧派にモデルチェンジ。貴重な先発左腕として7勝を挙げ、チームのリーグ5連覇に貢献した。
自由契約からの復活組といえば、加藤伸一の名も挙がる。ダイエー時代の1989年に12勝を挙げた“鷹のエース”も、90年のキャンプ中に右肩を痛めてシーズンを棒に振ると、92年7月に右肩関節唇の部分除去手術を受けるなど、苦闘の日々が続き、1軍登板なしに終わった95年オフに戦力外通告を受けた。
すでに30歳。現役を引退し、アパレル業界で再出発するつもりだったが、そんな矢先に、ダイエー時代の先輩で、当時広島に在籍していた井上祐二が、三村敏之監督の意を受け、広島のテストを受けるよう声をかけてきた。
ラストチャンスに賭けた加藤は、テストに合格すると、翌96年の春季キャンプでは肩の違和感もなく、オープン戦でも好投し、先発ローテ入り。そして、シーズンが開幕すると、2度目の登板となった4月17日の横浜戦で、7回を6安打無失点に抑えたあと、8回から井上がリリーフ、最後は佐々岡真司が締めて、643日ぶりの白星を手にした。その後も、南海時代にチームメイトだった捕手・西山秀二の巧みなリードにも助けられ、9勝7敗の好成績でカムバック賞を受賞した。
その広島も、8勝6敗、防御率2.99とエース級の働きを見せた98年オフに、チームの若返り方針からまさかの戦力外通告を受けたが、古巣・ダイエーをはじめ、8球団が獲得に名乗りを挙げ、年俸も前年より大幅アップでオリックスに移籍。01年に12年ぶりの二桁となる11勝を記録するなど、FA移籍の近鉄時代も含めて39歳まで現役を続けた。
オリックス2年目の1995年に15勝5敗27セーブで優勝に貢献し、最速157キロをマークした平井正史も、99年以降、右肘故障などで4年連続0勝と低迷したが、02年オフ、オリックス時代に投手コーチだった中日・山田久志監督がたっての希望で、山崎武司との交換トレードで獲得した。
翌03年1月の入団会見で「(プロで)節目の10年目を迎えますが、半分くらいは働いていません。名古屋に来て、(0勝に終わった)4年間の分を、一気に吐き出したいと思います。150キロ(復活)? 自信ありますよ」」と誓った平井は同年、先発、リリーフで2完封を含む12勝を挙げ、カムバック賞に輝いた。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)
広島に放出されて、阪神に移籍
広島時代の1968年に23勝を挙げ、球団創設後、初のAクラス入りに貢献した安仁屋宗八もその一人だ。
翌年以降は、痛風に悩まされ、成績が下降。さらに74年に就任したジョー・ルーツコーチからシーズン開幕直前にアンダースローに変えるよう指示されたのを拒否したことから登板機会が減り、オフに若生智男とのトレードで阪神に放出された。
広島で野球人生を全うするつもりだった安仁屋は、一時は引退も考えたが、「1年くらい遊んでこい」と恩人に説得され、阪神に移籍した。
「もう“絶対にカープを見返してやろう!”という一心で、オフに生まれて初めてトレーニングジムに通ったんです。これがよかった。それまではオフといえば遊んでばかりいましたから」(講談社『本』2017年8月号 二宮清純『新日本野球紀行』)。
翌75年、安仁屋は自己最多の66試合に登板し、5年ぶりの二桁勝利となる12勝5敗7セーブ、防御率1.91を記録し、初タイトルの最優秀防御率に輝くとともに、カムバック賞も受賞。さらに76年も10勝4敗10セーブと2年連続二桁をマークし、80年に古巣・広島への復帰をはたしている。
近鉄時代に阿波野秀幸とともに左のエースだった小野和義も、自由契約を経て、新天地・西武で復活を遂げた。
1986年から4年連続二桁勝利をマークし、91年にも12勝を挙げてカムバック賞を受賞した小野は、92年は0勝3敗、93年も1勝1敗と低迷。信頼する立花龍司コンディショニングコーチの調整方法をめぐって、鈴木啓示監督とも確執を深め、93年オフに自由契約になった。
「シーズンの途中から、ひょっとしたらという気持ちはありましたから、さほど……。実際の野球生活においては悔いはなかったんですが、ただ気持ちの面で、まだやりたい。何かやり残したことがあると感じた。それで野球を続けようという気になったんです」(「週刊ベースボール」1994年4月11日号)。
28歳と年齢的にも若く、まだ先発として十分働けるとあって、数球団からオファーがあったが、「最初に声をかけてくれた球団」西武を選び、秋季キャンプでテストに合格。晴れて移籍が決まった。
「この1年目が勝負。数字とかの目標は持たないで、とにかくがむしゃらにやりたいです」と1からの出直しを誓った小野は、速球の威力の衰えを、SFFを巧みに配してカバーする技巧派にモデルチェンジ。貴重な先発左腕として7勝を挙げ、チームのリーグ5連覇に貢献した。
鷹の元エースがテスト入団した広島で復活
自由契約からの復活組といえば、加藤伸一の名も挙がる。ダイエー時代の1989年に12勝を挙げた“鷹のエース”も、90年のキャンプ中に右肩を痛めてシーズンを棒に振ると、92年7月に右肩関節唇の部分除去手術を受けるなど、苦闘の日々が続き、1軍登板なしに終わった95年オフに戦力外通告を受けた。
すでに30歳。現役を引退し、アパレル業界で再出発するつもりだったが、そんな矢先に、ダイエー時代の先輩で、当時広島に在籍していた井上祐二が、三村敏之監督の意を受け、広島のテストを受けるよう声をかけてきた。
ラストチャンスに賭けた加藤は、テストに合格すると、翌96年の春季キャンプでは肩の違和感もなく、オープン戦でも好投し、先発ローテ入り。そして、シーズンが開幕すると、2度目の登板となった4月17日の横浜戦で、7回を6安打無失点に抑えたあと、8回から井上がリリーフ、最後は佐々岡真司が締めて、643日ぶりの白星を手にした。その後も、南海時代にチームメイトだった捕手・西山秀二の巧みなリードにも助けられ、9勝7敗の好成績でカムバック賞を受賞した。
その広島も、8勝6敗、防御率2.99とエース級の働きを見せた98年オフに、チームの若返り方針からまさかの戦力外通告を受けたが、古巣・ダイエーをはじめ、8球団が獲得に名乗りを挙げ、年俸も前年より大幅アップでオリックスに移籍。01年に12年ぶりの二桁となる11勝を記録するなど、FA移籍の近鉄時代も含めて39歳まで現役を続けた。
オリックス2年目の1995年に15勝5敗27セーブで優勝に貢献し、最速157キロをマークした平井正史も、99年以降、右肘故障などで4年連続0勝と低迷したが、02年オフ、オリックス時代に投手コーチだった中日・山田久志監督がたっての希望で、山崎武司との交換トレードで獲得した。
翌03年1月の入団会見で「(プロで)節目の10年目を迎えますが、半分くらいは働いていません。名古屋に来て、(0勝に終わった)4年間の分を、一気に吐き出したいと思います。150キロ(復活)? 自信ありますよ」」と誓った平井は同年、先発、リリーフで2完封を含む12勝を挙げ、カムバック賞に輝いた。
文=久保田龍雄(くぼた・たつお)