私は京都産業大学に進学しましたが、硬式野球はせずに準硬式をしました。大学ではゆっくりしたかったんです。アルバイトをしてはそのお金で全国各地に旅行をしていました。準硬式野球部自体は強くて、3年連続全国大会に出ました。監督はいなかったので、私がサインを出していました。
大学時代にオイルショックがあって、私の2つ上の先輩世代は、内定取り消しが続出していました。私の同級生も必死に就活していましたが、私は高校野球の指導者になりたいと思ったので就職活動をせず、1年間通信教育で佛教大学の教職課程を受けて教員免許を取得しました。
でもコネはありません。
そこで、中学時代「スクイズしましょう」と言っていた先生に履歴書を持って行きました。
でも、どうせ決まらないだろうと思って北海道旅行をしていたら、母から北海道の居場所にしていた友人宅に「東大阪市の教育委員会から電話がかかっている」と電話があってすぐに戻りました。
ここから私の野球指導者としての道が始まりました。
(取材:広尾晃)
第2回「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」へ続きます。
【第1回】「小さな体で甲子園に、当時から芽生えていた『指導者』への志」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
【第3回】「誰も期待していなかった浪速高校野球部の監督に」
【第4回】「メンタルトレーニングで、12年目にして甲子園に出場」
【第2回】「荒れた中学校での非常勤講師が、野球指導者としての原点」
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